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第8回親鸞賞記念公開シンポジウム基調講演 日本人の智恵―知れるところを問う―

一般財団法人本願寺文化興隆財団 理事長
大谷 暢順


大谷暢順理事長による基調講演

 この文学賞は当財団が京都で初めて実施した、フィクションの「親鸞賞」、ノンフィクションの「蓮如賞」の両賞を持つ、全国でも稀有且つ意義のある文学賞であります。
 過去二十年以上にわたって、日本人の精神文化に根差した作品を選考し、文学の昂揚を以て日本文化の発展に資して、多大な成果を挙げてきました。当財団としてはテーマを宗教に限定しないとしながらも、佛教の香り高い作品に期待してきた訳ですが、該当作に恵まれませんでした。然間(しかるあいだ)今回、『村上海賊の娘』が受賞作に選ばれましたこと、非常に嬉しく思っています。とりわけ、浄土真宗のみ教えと本願寺にとって重要な歴史が描かれており、当文学賞にふさわしい労作と評価しています。
 さて、本日の基調講演、シンポジウムでは皆様とともに日本人の思想、文化を再考し、日本人の智恵をここ京都から世界に発信していきたいと思っております。

知性万能の現代

 現代は知性万能の時代で、何事も合理的に、効率を考えて判断しなければならないという風潮があります。そして、自然を克服、又は征服する為か、或いは世の中の生存競爭を鬪い抜く為か、何れにせよ、現代人は、勝たなければ、という想念に追立てられています。
 二十世紀前半や十九世紀から比べて、生活は著しく便利で容易になりましたが、現代人は多忙極まりなくなりました。今後も利便性は一層進行するでしょうが、人間の安堵感は、それに反比例してどんどん小さくなって行くでしょう。
 又、近頃日本人の間で、「私はどの宗教も信じていません」と胸を張って言う人が多く、政教分離の悪影響が、日本国内にすっかり浸透しています。無宗教は、今や日本人の誇のようです。
     しかし、この誇は、驕ではないでしょうか。無宗教が何か知識人の証とでも言わんばかりで、反対に宗教を持つ人は、無教養で、低級であるかのように、往々にして考えられています。 現代社会は、当に知性偏重の上に立っているのです。
 一方、無宗教で何にも信じない、というのは本当でしょうか? 案外、テレ?とか、ホームページ等を信じ込んではいないでしょうか。そういう人々は、知性を離れるのが恐い、という自分自身の弱さに気付いているのでしょうか? つまり負けたくない、勝ちたい、そして知る事が勝つ事に繋がるという固定観念に齧り付いている為に無神論を標榜するのではないでしょうか?  「何も信じない」というのは、観点を変えるなら「何も信じない」事を、実は信じているのです。人間は、やはり何かを信じている、と私は思います。何一つ信じないで、人間は生きていられるものではありません。

蓮如上人の金言

 さて、ここに興味深い先哲のお言葉を紹介します。浄土真宗開立の祖、蓮如上人の十男、実悟の編纂した『蓮如上人御一代記聞書』の中の一文です。それは、
 「日比しれるところを、善知識にあひ(イ)てとへ(エ)は(バ)、徳分あるなり。しれるところをとへ(エ)は(バ)徳分ある、といへるか(ガ)、殊勝のことは(バ)なりと、蓮如上人仰られ候。不知処(シラザルトコロ)をとは(ワ)ゝ(バ)、いかほと(ド)殊勝なることあるへ(ベ)きと、仰られ候」
 です。
 現代風に言いますと、
 「常々知っている事柄について、佛法に導いてくれる良い師に出逢った時、これを問い質(ただ)すのは、有意義である。『知っている事柄について問い質すのは、有意義だ』というのは、誠に勝(すぐ)れた考え方である。知らない事柄について問うのは、さほど立派な事とは言えまい―こう蓮如上人は仰せられました」
 となります。
 誰しも一驚する言葉です。私も初めて一読した時、しきりに首を傾げました。知らないことを問うのが一般的な常識だからです。ところが上人の言は、その正反対です。私は全く腑に落ちない言葉として、気になって仕方なく、何度もこの文を読み直しました。

ソクラテスの「無知の知」

 そこで、私はソクラテスを連想しました。彼はギリシャのアテネが繁栄したクラシックと呼ばれる時代に出現した哲学者です。彼はアテネの知識人であるソフィストに次々と質問をします。それを続けていくと最後にソフィストは答えられなくなる。その時にソクラテスは「そうなのだ、我々人間は何も知らないのだ。大事なのは、色んな知識を増やしていく事ではない、自分自身を知る事だ」そして、「君は、君自身を知らないだろう」と話したと言います。このようにして無知の知、自分自身が何も知らないという事を自覚すべきとソクラテスは教えました。
 上人の「知れるところを問う」は、結局、何も知らない自分に気付く、という自覚に到達するし、又何も知らない自分を自覚するから、「知れるところを問」いたくなる、とも言えるのではないでしょうか。ソクラテスと上人には、この点一脈相通ずるものがあるかも知れません。 何も知らない自分の自覚は、又何の力も無い自力の諦感であり、それは即ち、広大無辺の無量光佛(アミダ佛)の他力に縋る事を教える、浄土真宗の教義でもあります。

近代西欧の形成

 ここで、ソクラテスから始まる西欧の思想と文化、経済を振り返ってみたいと思います。古典ギリシャの思想は、後世、人間とその人格の尊重、寛容の精神、国家レ?ルに於けるデモクラシーを保障する人間主義(ユマニスム)であると理解されました。
 ルネッサンスは、本来キリスト教を再生させる運動であったのですが、ギリシャ帝国が亡びて、イタリアへ亡命したギリシャ文化人によって、クラシック・ギリシャが再生するユマニスム運動へと展開します。
 封建制度やローマ・カトリック教教理の閉塞性を打破して、社会、人間性の開放へ向かい、こゝに西欧近代の幕(まく)開(あき)を迎えたのでした。
 新時代の到来し、ルネッサンス文化が建築、絵画、文学、音楽、工芸等あらゆる分野で、一斉に花開きます。科学も長足の進歩を遂げ、発明、発見が相次ぎ、商工業の勃興、経済の発展へとつながりました。今日の我々は、この西欧文明の、数世紀に亙って築き上げた、計り知れない成果の恩惠に浴している事を忘れてはなりません。
 これはユマニスムの掲げた人間解放の精神のお蔭で、個人が自由に夫々の能力を発揮し得るようになった結果です。国家は強力な機関となり、政治、経済、産業、教育等、社会活動のあらゆる分野での法制を完備する。又工業の発達で、離農と人口の都市集中が進み、大量生産が推進され、事務も工場作業も自動化される。
     そして、蒸気、電気、原子力等の動力の発見で、更に決定的となります。欧米社会はこれによって、殊に十九世紀頃から、地球上のそれ以外の地域では想像すらし得なかった生活の快適を味わう事ができるようになり、今は世界中がこの恩惠に浴するようになった謂で、生活の向上が加速度的に成し遂げられています。
 さらには、生活の快適、安楽という人間本来の密かな願望を、他の大陸、他の民族文明では殆ど充たし得ていなかったところ、欧米文明の感化によって、世界中がこれに目覚めました。

近代化のもたらしたものとは

 一方、先程述べた情報への依存過多による不安とそれを払拭するためのさらなる情報収集の連鎖が続きます。食べれば食べる程、食欲が増す(L'appetit vient en mangeant.)とフランスの諺にもあるように、満たされれば満たされるほど、人間の貪欲は増大する。そしてそれに反比例して、現状への満足度は昂まるどころか、却って不満の種が続々と生じて来ています。
   こうして、我々が近代、乃至現代と呼び慣わしている時代、age(アージュ)は、大きな曲角に来てしまった。と言うより、我々には将来が不安でならない、危険材料が山積していると言う認識は世界共通でありましょう。
 確かにルネッサンスや近代という時代は、人間の能力や可能性を、飛躍的に増大しました。 然しそれが人類の幸福に結び付かないのなら、一体何の「徳分」になるでしょうか。

現代人に求められる思想

 こゝでもう一度、当初の論題である「知れるところを問う」に戻ります。抑々「しれるところ」という言葉で、具体的には、何が蓮如の心の中にあったのでしょうか?
   ―――それは、私がこゝ迄考え続けて来た人生の問題、別の見方をすればソクラテスの言った「汝自身を知れ」に帰結するのではないでしょうか。人間誰しも分り切っている筈の問題の最たるもの、それは外ならぬ、自分自身の事です。つまりは、「自分は何故生まれて来たか」「自分は何故生きているのか」「自分は何故死なねばならないのか」という事なのです。
 やはり「不知処をと」うより、「知れるところをと」う方が、人間には必要だったのです。それに「不知処を問」うても、結局凡てを知り盡すところへ、人間は到達できない。どんな事でもできる、と人間は思い上ってはならないのです。
 大聖釈尊も、祖国カピラワ゛ットゥの滅亡を止められなかった。そして業縁の催すところ如何ともし難いと嘆息された。自然現象だけではなく、社会の事象も、人間の思惑を超えて勝手に変化して行く。 社会どころか、個人が銘々自己の理性に基いて、行動を律し得ない事態が?々起るものです。
 西洋近代精神は、余りにも遠くを、そして広大なるものを望み過ぎました。身近なものを等閑に付した結果、様々な矛盾が噴出しました。この限界状況は理性、或いは道義(モラル)によって解決するとデカルトやアルベール・カミュも考えたようでしたが、どうもそれは覚束ない感じであります。
 やはり不知処ではなく、「しれるところ」を問う事が、人間に、特に現代の我々に求められてはいないでしょうか。そして「しれるところ」とは、結局、私自身、という事だと思います。

「知る」よりも「わかる」感動を

 然し乍ら、「しれるところ」、と言うより「知っている筈のところ」と言った方が、もっと正確なのかも知れません。
 更に考えるなら、知っている筈の私自身を、私は実は知らないのではないでしょうか。そして問うても、答は得られないでしょう。
 第一「知る」という事だけが、人間の為すべき凡てでしょうか。私は「知る」と「分る」とは違うと共に、物事の「有る」か「無い」かを識別して知っても、それだけで、人間に満足は得られないと思います。
 「知る」というよりも「分る」という事の方が大事であり、それはつまり「信じる」であり、そこには感動が生まれます。そして、「有無」の問題も乗り越えられていると私は感じています。
 近現代という時代は、「不知処を」問い続けた数世紀と見る事ができるかと思います。それは一面「殊勝」極まりなく、「德分」も中々大きかった。然し今やそれを遥に上廻るデメリットを引被り兼ねない事態となっています。やはり「日比しれるところ」、即ち自己自身を篤と問うべきだと思うのであります。
 進歩を続けた欧米文明が、その数世紀の間に、アジアの叡智である佛法に触れる縁に恵まれなかったのは、今更乍ら悔まれるところです。
 しかし、今からでも遅くはありません。財団が外務省や経産省とともに取り組む「クールジャパン」事業では、このように上人等、日本人の先哲が残された思想、精神を国内外で発揚することにより、現在混迷に喘ぐ世界に、希望の燈火を掲げられるとの確信の許に、さらなる活動に邁進していく所存であります。

以上