本願寺維持財団
TOPページへ
沿革と活動
沿革と活動
公益・文化事業
公益・文化事業

東本願寺 東山浄苑
東本願寺 東山浄苑

吉崎御坊 蓮如上人記念館
吉崎御坊 蓮如上人記念館


財団法人 新卒者 採用情報

沿革と活動

設立者の意志「勧学布教、学事の振興」目指し
明治維新と廃佛毀釈に伴う幾多の本山危機を乗り越えた東本願寺第二十一世厳如上人の遺志は、「勧学布教、学事の振興」でした。
その高遠なる遺志を具現化するため、第二十二世現如上人が宗風を高揚させ、第二十三世彰如上人は宗教法人の無き時代であった大正元年、財団法人本願寺維持財団(以下、財団)を設立されます。

その後、現如上人による大谷家私有地の寄進を受け、財団は三代にわたる願いを受けて順風満帆の中、船出をします。
しかし、当初の計画の変更を余儀なくされ、財団は深刻な財政難に陥って、逼塞した活動を強いられます。
世界一の納骨墓所東本願寺東山浄苑を拠点に
この状況を打開したのが、奇しくも厳如上人御裏方・嘉枝宮和子女王によって大谷家へもたらされた六條山に昭和四十八年、本願寺と真宗大谷派からの要請を受けて、全く資金力のない中、大谷暢順財団理事長が孤軍奮闘の末、建立した東本願寺東山浄苑(以下、浄苑)でした。

以来、三十余年の星霜を重ねて、浄苑は、今や約三万基の納骨佛壇を安置し、年間三十数万人の参苑者が全国から集う世界一の納骨墓所に発展します。
そして、八百年にわたる本願寺の法統を連綿と受け継ぐ信心結集の一大聖地として、お念仏の声絶え間なく、まさに、佛国土の顕現を見たのです。
さらには、浄苑を拠点として当財団設立者・彰如上人の意思、並びに厳如上人の悲願である「勧学布教、学事の振興」、すなわち、「本願寺の維持」である本願寺伝承の有形、無形の文化財、及び、文化の維持、振興を図る事業に邁進して、設立者の意思を具現化してきました。

現在、財団は真の公益に資する財団法人として、日本文化を興隆するとともに、佛教文化に基づく日本人としての伝統精神を復興し、広く世界に向けて宣布することをもって、国際社会に貢献する国家の高揚にも寄与しているのです。

財団設立者
大谷光演東本願寺第二三法主

大谷暢順財団理事長




財団法人 本願寺維持財団

御 親 示

我力 時機相應ノ 要法ハ 常然トシテ 変易アルヘカラスト雖トモ 紹隆ノ方法ニ 至リテハ 時勢ノ 変遷ニ 伴ヒ 一段ノ注意ヲ 払ハサルヘカラス客歳篤信ノ檀越 相謀リテ 維持財団ヲ 組織シ 浄財ヲ 蓄積シテ 本廟本願寺擁護ノ 元資ニ 充テ 勧学布教ノ 前途ニ 於テ 後顧ノ憂 ナカラシメンコトヲ 期セリ 報恩ノ 経営ト 謂フヘキナリ

大正二年一月十四日
本願寺門跡 大 谷 光 演
御親示 日本文化興隆に向かって
 佛教が我が国に伝来したのは、西暦の六世紀中葉で、爾来千五百年間、我が国は佛教国として繁栄を続け、世界に比類のない日本文化を築き上げて来ました。佛教は日本人の生活のあらゆる面に浸透し、佛教によって我々は育てられて来たのです。

 今から百五十年前、黒船の来航で我が国は開国を余儀なくされましたが、明治維新によって積極的に海外との交流が始まり、大いに西洋文明を取り入れることになりました。これによって我が国の文化も、伝統に加えて、国際性を備え、一層豊かさを増したと言えます。

 しかし、欧米列強に伍して国家を維持するため、極端な軍国主義に走った結果、悲惨な敗戦の憂き目を見る事となりました。

 戦後、荒廃の極に達した国土の経済を恢復し発展させるのに渾身の努力を傾けて、遂に世界第二位の経済大国に蘇生することができました。それにもかかわらず我が国は現在、政治、社会、外交、教育などあらゆる分野にわたって混迷し、将来に大きな不安を抱えるようになったのは何故でしょうか?
 それは、国家も国民も現在、未来に目標を失ったからだと思います。そもそも我が国は、古来八百万の神々を崇める神道の教えが弘まっていましたところ、佛教が伝来し、漢文化など大陸の文物の影響も受けて、長い歴史の中で、それらの渾然一体となった崇高な佛教文化を礎き上げたのです。
 しかし、明治の代となって鎖国を放棄した時、このままでは国際社会に伍していけないということで、欧米文化への同化を急ぎ、古来の伝統も捨て、また富国強兵を誤って戦争に突入してしまいました。それ以前、熟語として存在した「和魂漢才(わこんかんさい)」に代って、「和魂洋才(わこんようさい)」ということが唱えられたりしましたが、往々にしてその「和魂」は忘れられて「洋才」のみになった観があります。特に、昨今は経済強化に腐心するあまり、西欧文明の中でも、その物質面のみにとらわれている嫌いがあります。
 ここに我々は過去を振返り、我が国が世界のどの国にも劣らぬ偉大な文化を作ったことを、そして、それを現在も所持していることに気付くべき時であると考えます。しかも明治の開国以来、広く世界の文明に通暁した結果、我々の文明を外国に発信する能力も習得していると思われます。
 佛教が今から二千数百年前インドに於いて釋尊によって開かれ、アジア諸国に伝播した後、我が国に伝えられたのは言う迄もありませんが、我々の先賢はこれを我が国の風土に同化させ、また、教法の深奥化に努めて、伝来の教えを更に昇華した日本佛教を完成しました。

 この日本佛教文化を基礎に我が国の存在理由を昂め、国際社会に貢献していくのが日本国家の将来に向って進むべき道ではないかと思います。明治以降の富国強兵も、敗戦後の経済振興も本来その手段に過ぎないものです。それを目的であると勘違いした、また、しているところに近代日本の行き詰まりがあるのではないでしょうか。

 さて、明治維新の廃佛毀釈を乗り越え、両堂再建、北海道開教などの偉業を成し遂げられて、本願寺の宗風を大いに高揚された第二十一世厳如上人の誓願、並びに、遺言は「勧学布教 学事の振興」でありました。現如上人は、この遺言を具現化すべく、徳川家より寄進され、本願寺門跡歴代が相続してきた京都駅前・東塩小路町の私有地を財団法人本願寺維持財団に寄進され、宗教法人が存在しなかった大正初期に於いて、財産の保全を図りつつ、「勧学布教 学事の振興」の実現、すなわち、寺院としての教化活動を期されたのでありました。
 そして、この誓願は彰如上人に受け継がれ、その目的成就のために当財団が設立された次第であります。

 当財団では、厳如上人、現如上人、彰如上人、闡如上人と連綿にして、連続無窮に受け継がれるこの誓願を完遂し、且つ、日本文化興隆に資する事業として、この「勧学布教 学事の振興」の発展に向け、次の五訓をもって、邁進する所存であります。
【勧学布教 学事の振興への五訓】

一、我々は、佛教徒たる矜持を持ちます。
 海外に於いて、個人の信仰を問われ、無宗教であることを平然と公言するのは日本人だけです。国際化社会の中で、この言動は外国人から広く冷笑の的となっています。
 東本願寺東山浄苑では、胸を張って「佛教徒である」ことを宣言し、それを誇とする日本人を目指します。

二、我々は、日本人たる矜持を持ちます。
 現代は、世相の混迷に加えて、日本人としての精神や伝統を見失いつつあります。過去の怨念に囚われ、自虐的且つ卑怯な歴史観、思想がわが国を暗雲の如く覆っている現状は、誠に残念なことです。
 「目的なき民族は滅びる」とのソロモン王の言葉通り、今の日本は当に羅針盤を失って航海を続ける船の如くであります。
 東本願寺東山浄苑は、佛教に基づく日本人たる精神を羅針盤とし、その誇りを国内外に伝えたいと思います。

三、我々は、何人に対しても、何事についても常に謙虚な心で接します。
 日本人、佛教徒としての誇を持つことは、他者を侮蔑したり、独善的な態度で威張ることでは決してありません。
 卑屈で自虐的ではなく、あくまでもすべてに於いて謙虚でありつつ、而も誇をもって生きる日本人でなければなりません。

四、我々は、佛法に親しみ、信心獲得に努めます。
 日本人たる主体的精神、拠って立つところを見誤ったのは、なぜでしょうか。
 それは、ひとえに日本人が宗教心を失ったからでありましょう。佛教は、すべての文化の根源としてその役割を果してきただけではありません。数千年にわたって世界中の人々の苦しみ、悩みを癒し、生きる喜びを与えてきました。
 浄土真宗に於てはみ佛のお力を信じ、安心してみ佛のお助けにお任せする、「他力の信心」を宗とします。

 人間は何の為にこの世に生まれてきたか。こう問われれば、私は「それは信仰を持つ為、すなわち、佛を恃む心を持つ為である」と申しております。
 今、日本人にとって最も大切なのは、佛教に基づく精神の復興、さらに突き詰めて申せば信心の回復です。傲慢ではなく、あくまでも謙虚な心を持って佛教徒としての誇、日本人であることの誇を持つ。これこそが日本を救い、ひいては、世界の再生にもつながるはずです。

五、東本願寺東山浄苑を安らぎの墓所として佛恩に報謝し、祖先の恩に感謝し、子孫の繁栄に努めます。
 東本願寺東山浄苑は、日本人の伝統的精神、豊かで温和な心の再生のため、親子、孫、家族全員が共々にみ佛に手を合わせること、すなわち「佛法(みのり)の栄は家の栄、家の栄は国の栄」の心を育む活動を続けて参りました。

 信心結集の地として、一人でも多くの人たちが家族全員で佛縁を結び、み佛と先祖へ感謝しつつ、子々孫々、未来永劫にわたる心の安らぎを得られる聖地が、ここ東本願寺東山浄苑です。

平成十八年四月十五日
本願寺門跡
  財団法人本願寺維持財団理事長
  東本願寺東山浄苑苑主
         釋  經  如

 明治の末期、本願寺(通称・東本願寺)の勧学布教と財政基盤の強化を目的に構想が検討され、大正元年(1912年)、時の本願寺門跡のご発示、ならびに大谷伯爵家からの7千坪の土地の寄附を受けて、それを基本財産として本財団は設立されました。

 運用財産の主な財源として予定された、永代経収入が真宗大谷派に引き抜かれたことで、たちまち財団運営の途がふさがれ、不本意な停滞の状態が実に昭和48年まで続きました。

 この年になって東山浄苑の創建運営を本願寺の要請で引き受けたことと、それと並行して進められた上記の土地の有効利用を図る懸命の努力により、財政基盤は飛躍的に強化されました。
 こうした背景のもと財団は設立以来、約1世紀に亘って、その目的に沿い本願寺を支援してきました。

 ところが昭和62年(1987年)、本願寺は真宗大谷派により解散吸収され、慶長8年(1603年)の開山以来400年続いた、宗派本山としての寺院の実体が消滅してしまいました。

 JR京都駅の北にそびえる壮大な伽藍“お東さん”はもはや「お寺」ではなく、又、住職も不在の、単なる廟(墓所)になってしまったのです。

 しかし本財団は、財団設立の主旨(前掲「御親示(抄)」)に明らかなように、“浄財を蓄え本願寺の法灯擁護の原資に当て、将来も後顧の憂いなく勧学布教を進めて、報恩謝徳の経営を行う”ため全力を挙げています。