財団法人本願寺維持財団(当時:現一般財団法人本願寺文化興隆財団) 理事長
大谷 暢順
さて、当財団では、「本願寺の維持」を活動の主目的の一つとしております。
「本願寺の維持」とはすなわち、生活に密着して日本人の精神的土壌を育み、且つ、日本文化の最高峰の一つとして、その輝きを放っている本願寺が伝えてきた文化を昂揚し、普遍化することであります。
当財団では、この「親鸞賞」、そして、ノンフィクション文学賞の「蓮如賞」を毎年、交互に開催してきたほか、多彩な出版物、京都東山文化振興会、フランス、スリランカの津波本願寺佛舎などに於いて、この文化を日本のみならず、世界に向けて賞揚し、日本文化の発展に資する事業と国内外から高く評価されてきました。
今回の記念シンポジウムもその文化活動の一環であり、京都市長・門川大作さんから、当財団の活動へ多大な御理解をいただき、第二部を共催することとなりました。
これまで、市長さんとは、京都から日本の精神、伝統文化を世界に伝えることによって、この混迷の時代に一筋の光明を見いだせないかと話し合って参りました。
そこで、第二部では、各選考委員の先生、並びに、第五回親鸞賞の授賞者・立松和平さんによるパネルディスカッションを行い、宗教、芸術、日本文化の「首都」である京都より、新たな時代を切り拓く「京都文化マニフエスト」を宣言致します。
送付先は、わが国の首相をはじめ、米国大統領、フランス大統領、EU委員長らであります。
ぜひ、本日、御参会の皆さまには、この趣旨を御理解いただだき、あらためて日本文化の素晴らしさを知っていただく勝縁とされることを願っております。
本日のシンポジウムは「日本文化を拓く~京都から世界へ」という大へん欲張ったテーマで、それに見合うようなお話は中々できませんが、ほんのその一端と申しますか、平生(へいぜい)私の考えております事を述べてみたいと存じます。
我国の歴史を顧みますと、六世紀中葉の大陸の文物の受入れによって文化の飛躍的な発展が始まっています。この大陸の文化とは概ね佛教文化と言えるでしょうが、佛教が我国に伝来したのは、釈尊生誕後一千年近く経ってからの事であります。つまり大陸で已に千年の歴史を経ていて、その間に、根本佛教、部派佛教、大乗佛教、又顕教、密教と教義、教団、文化に於て已に様々の変遷、発達を遂げていたのです。
それ等が全部、一時(いちどき)に我国に入って来たのですが、而もそこには、この教の生れたインドを初め、その通過して来た国々の民間信仰なども混入していたわけです。それ等の間には、当然、様々の矛盾・背反もあったでしょうが、当時の我々の先祖は実に驚くべき寛容の叡智を以て、それ等を併立させて学び取ったのであります。
更にそれに加えて、我国の歴史始まって以来の神道の教を、我々の先祖は放棄するどころか、何とか佛教との融合、一元化への道を模索しました。その結果、本地垂迹説が起ったり、神宮寺が建立されたりするに至ります。
このようにして、飛鳥、奈良、平安などの文化が花開いたのです。最後の平安時代は平安(即ち今日(こんにち)の京都)に都が置かれた時代なので、こう呼ばれているのは申す迄もありませんが、一応西暦七九四年から一一九二年迄のこの期間は、文字通り治安がよく、軍隊さえなく、検非違使という警察制度だけで世の中が治まったのです。先程言いました融和精神の上に築かれた文化だった故に、平穏と安定の時代が実現したのだと思います。
然し社会の安定は「沈滞」を齎(もたら)します。こゝに新興の武家が公家に代って政権を握る鎌倉時代が到来します。そして鎌倉佛教はその社会変革の指導原理となったと言えましょう。言而(いわば)妥協の文化だった平安文化を否定して、真摯に人間の心の救いを説く鎌倉佛教が登場するのです。
この傾向はそれなりに大いに意義のある事です。然し教義の簡明さを求めて純粋性を極度に追及した事が反面、独善主義、排他主義に陥(おちい)る危険も孕むようになりました。
こういう現象は今日の世界情勢にも何か相似点があると言えないでしょうか? 現在地球上の各所で、政治、民族、宗教等の差異が原因となって紛争が起っているのは実に悲しむべき事です。それ等対立する国家、民族は相互に彼等の信ずるところを唯一絶対の正義として、これを各々敵対する相手国、或いは民族に押し付けようとする為にこのような不詳事態が発生し続けるのではないでしょうか? これは正に独善的イデオロギーの惹起する弊害であります。妥協を許さない、厳格な、純粋性への志向がその根底にあると思われます。現に宗教の世界などではその教の根源に立返ろうというフォンダマンタリスム(原理主義)が盛んになって来ています。それ等原理の正統性が疑わしいのみならず、その運動が往々にして暴力的であり、人類社会に多大の迷惑を及ぼしている事は今更繰返す迄もない事でしょう。凡そ善悪の基準は国家間、民族間等、又時代によって必ず差異のあるものであって、恒久不変の、或いは万国共通の絶対善が存在するという幻想を未だに抱いている人々があるようです。
そこで、今申しましたような独善、排他主義、原理主義、純粋主義などの根幹にあるのは、人間中心の思想ではないかと私は思うのですが、人間至上主義、自然、地球も宇宙も凡て人間の為にある、万物の帰結するところは人間である、という傲慢な偏見から、これ等の患が発しているのではないでしょうか?
ところで、日本文化の話に戻り、鎌倉から室町へと時代が変ると、文化、佛教に変化が見られます。元々外来文化と我国古来の文化の融合の上に、奈良、平安の文化が成立したと、私は先に申しましたが、この本来の融合、融和志向に、南北朝、室町時代は回帰する傾向が認められると私は感じます。
平安文化の重要なテーマであった『ものゝあはれ』が室町時代には『寂(さび)』とか『幽玄』という言葉になって引継がれるようになります。
鎌倉佛教も、室町に入って、当初の頑(かたく)なゝ独善的、高踏的態度が次第に柔らげられて行きます。私はこの点を室町末戦国期に現れた蓮如について考えてみたいと思います。
蓮如は西暦一四一五年京都に生れて八十五才まで長寿を保った浄土真宗の僧ですが、それ以前この宗旨はあまり弘まらなかったばかりか、分裂に分裂を重ね、又教義、教団共に他宗化、他宗への隷従を余儀なくされたりして、一宗の独自性、主体性(イダンティテ)も危ぶまれる状態になっていたのを、宗祖親鸞の説いた弥陀一佛、他力本願の教理に純化、統一させると共に、全国的に教線を伸張して、一代にして浄土真宗を、我国最大の教団に育て上げました。この点彼の布教は一向一心、如何なる妥協も許さない純粋、厳格な鎌倉佛教の神髄を、世に再認識させたものでした。
然し反面、奈良の興福寺や浄土宗の知恩院等との親交に努め、長年に亙って比叡山延暦寺との確執を解消したりしています。このあたり、日本文化本来の伝統たる融合・調和の精神を遺憾なく発露したと言えようかと思います。
就(なかん)中(づく)日本本来の教である神道との融和には大いに心を碎き、彼の数多く著した説法の書・『御文』では?々、
諸神諸佛菩薩ヲカロシムヘカラス
(我国の八百万(やおよろず)の神々も阿弥陀佛以外の諸佛、諸菩薩も疎(おろそ)かにしてはならない)と門徒達を戒めています。「我々は阿弥陀佛によってしか救われないのであるから、他の諸神諸佛は一切拝む必要もない」という考え方が、信者の間に拡がっているのに対し、警告を発したものであります。
『空善聞書』という書物には、蓮如の言として次のような事が書かれています。一応私の意訳しました文を読みますと、
他宗の人は、神を祀(まつ)るお堂の前で礼拝(らいはい)し、お賽銭(さいせん)をまいて信仰するのに、こちら(真宗)の者は、そういうのは雑行(ぞうぎょう)であると言って、拝みもせず、見て見ぬふりをしている。これはまるで、その人間が真宗の者であると、他宗の人々の前で見せつけるようなもので、親鸞聖人のお取り決めに反することである。
そういう人たちに限って、こちら(真宗)の御本尊(ごほんぞん)・阿弥陀(あみだ)佛(ぶつ)にも、御開山親鸞聖人の御影(ごえい)への拝みようにも、そのぞんざいなことと言ったら、全く言いようもない。
現にお経には、『五体を地に投げて礼拝せよ』とも、また、『頭に御佛の御足をいただいて礼拝申し上げよ』とも書かれている。
この人々は、いずれの場合においても間違っているのである。
これは示唆(じさ)に富んだ言葉だと思います。確に宗教には、一切妥協を認めない、純粋そのものゝ要素があります。浄土真宗の場合は、阿弥陀佛以外はすべて排除するという事になりましょう。けれども厳しく純粋に、というのは、結局手段であります。真の目的はやはり、信仰を確立する事なのです。
蓮如は門徒に対し、彼等の目的と手段の取違えを改めさせようとしたのです。厳格、純粋を追及するあまり、肝心の信仰、即ち佛道を疎かにしてしまう、空善聞書の例で申しますと、神を拝んだりしまいと固執する為に、阿弥陀佛を拝むのも忘れてしまうという皮肉な結果が生れるという事です。
諺に言う「角を矯(た)めて牛を殺す」という事になるのでしょうか。
現在世界に大きな不安を起している原理主義や純粋主義(ピューリタニスム)にも、このような側面があるかと思慮します。自らの信ずるところを行(おこな)うのに果して暴力が必要でしょうか?
『御文』には次のような條(くだり)もあります。
抑 当流ノ 他力信心ノ ヲモムキヲ ヨク 聴聞 シテ 決定 せシムル ヒト コレ アラハ ソノ 信心ノ トホリヲ モテ 心底ニ オサメ ヲキテ 他宗 他人 ニ 対シテ 沙汰 ス ヘカラス マタ 路次 大道 ワレワレノ 在所 ナント ニテモ アラハニ ヒト ヲモ ハヽカラス コレヲ 讃嘆 ス ヘカラス
浄土真宗の教をよく聴聞して、本願他力の信心が決定した暁には、その教をしっかりと心の底に収めておいた上で、他宗の人々には、それを説教したりするものではない。「路次 大道 ワレワレノ 在所」つまり屋内でも屋外でも人の集る場所で、不特定多数の人々に向って、何の遠慮もなく、真宗の教義を得々と語ったりするものではない―要するに信仰は夫々自分自身の為にあるのであって、他人に対する自慢話の種にしてはならない、という意趣です。
信仰を得たら人間は謙虚にならなければならない、又人を謙虚にするのが本当の信仰というもので、信仰を得たと言って傲慢になるならば、それは本当の信仰ではないと蓮如は教えようとしているのでしょう。
更に謙虚になれば、独善や排他に陥いる過失を逃れられるという事が、恐らく蓮如の言わんとするところかと私は思います。浄土真宗以外の佛教の諸宗も、亦神道も尊重する心懸けができます。
そこで彼は本地垂迹説も真宗の教理の中に取入れて、宗祖親鸞の教を正しく守りながら、融合の精神に立つ日本文化の中に浄土真宗の位置付けをしようと試みました。
別の御文には
一 ニハ 一切ノ 神明ト マウス ハ 本地ハ 佛 菩薩 ノ 変化 ニテ マシマせ トモ コノ 界ノ 衆生ヲ ミルニ 佛 菩薩 ニハ スコシ チカツキ ニクヽ オモフ アヒタ 神明ノ 方便ニ カリニ 神ト アラハレテ 衆生ニ 縁ヲ ムスヒテ ソノ チカラヲ モテ タヨリ ト シテ ツ井ニ 佛法ニ スヽメ イレン カ タメ ナリ
「神明」とは我国の神の事で、佛・菩薩は本地であるが、その教は高邁(こうまい)で近付きにくいので、先ず権(かり)に神の姿となって(垂迹)我々衆生と縁を結んで(言而、親近感を感じさせておいて)その後、佛法に導き入れるのである―という奈良時代以来の本地垂迹説をそのまゝ紹介し、それに続けて
コレ スナハチ 和光同塵ハ 結縁ノ ハシメ
としています。和光同塵という言葉は『老子』の中に出て来るそうですが、「光を和げ、塵に同ず」と訓じ、自己の才能を隠して、塵の世に交り居るという意味です。佛教ではこれを転用して、佛、菩薩が本来の姿を隠して、衆生の中に出現し、即ち日本の神の姿に変身して、衆生を救うと考えるのです。要は神も佛も別のものではない、一体である―これは融合、調和を求める本来の日本文化の特徴ではないでしょうか?
又一面、「光」に象徴される絶対性にどこまでも拘泥しないで、「塵」即ち瑣末(さまつ)な、卑近な、日常生活の中に、却って救いがあるのだという事にもなるでしょう。
蓮如を例に取上げて、室町佛教・室町文化の神髄の一端をお話したつもりであります。今日の混迷する世界状勢の中に、融和融合の精神の基に築き上げられた、室町文化、京都文化を発信する事が、国際的に貢献するところ大きいと感じまして、講演させていたゞいた次第であります。
以上