財団法人本願寺維持財団(当時:現一般財団法人本願寺文化興隆財団) 理事長
大谷 暢順
「京都発のフィクション文学賞」として、本賞は唯一の存在であります。
まずは、後援、祝辞を下さった前原外務大臣、福山内閣官房副長官、門川京都市長、又、文化庁、国際交流基金、京都商工会議所等、関係各位に厚く御礼申し上げます。
財団法人本願寺維持財団では、東本願寺東山浄苑の経営とともに、生活に密着して日本人の精神的土壌を育み、且つ 日本文化の最高峰の一つとして、輝きを放つ本願寺伝承の文化を昂揚し、普遍化することを活動の主目的としています。「親鸞賞」もその一つで、これと毎年交互に開催するノンフィクション文学賞の「蓮如賞」、多彩な出版、京都東山文化振興会、さらに、フランス、スリランカ等世界に向けて日本文化を賞揚してきました。
本年五月にはその功により、日本国外務省から「国益に資する文化事業」と特別表彰も受け、EUやスリランカの大統領等、海外からも高く当財団の活動が評価されております。
さて、この記念シンポジウムでは、「日本文化興隆に向かって―『外交文化』の創造―」をテーマとしました。
外国との交際、交渉を外交と言うのでしょうが、先週終了した大河ドラマの『龍馬伝』における幕末の日本は、今の我国にとってもお手本になるのではないかと思います。幕末の時代に、日本が外国の植民地にならなかったのは、奇跡的なことでした。日本は本当に賢明に行動した。一歩間違えれば、欧米列強の植民地になっていた幕末は、まさに日本が大きな岐路に立たされた時代でした。
然し内外に数多の不安材料を抱えている現在の日本も、彼の時代と同様の危機に直面してはいないでしょうか。何とかこの『龍馬伝』のような名作に多くの人々が啓発されて、日本再生の道を見出して欲しいと、切に望まれるところです。
龍馬が生きた激動の幕末、そして龍馬達が道筋をつけてくれた明治に於て、日本は西洋の文化を取入れて維新を行いました。その文化というのは、中世から脱皮を遂げた近代というものでした。西ヨーロッパの狭い地域に閉じ込められていた中世の西洋は、世界を植民地化して殆ど地球全体に拡がりました。中世迄の西洋史が引継がれて、近世現代世界史となったのです。明治維新とは、その近現代世界史に日本もそのまゝ入り込む、或いは組込まれる決断をしたという事でありましょう。
そこで、近世ヨーロッパの全てのものを学び、受け取るのが明治維新の課題となりました。物質文明も精神文明も凡て受け入れる。ところが、その厖大な西洋文化吸収の中で、日本人は外交、ディプロマシーの分野だけ忘れたのではないか、と私は思います。その為、明治で築き上げた大日本帝国というものが、世界中から叩かれて潰されてしまうという結果になったのでしょう。
中世西ヨーロッパが近代世界に移行したについては、その間に、大きな葛藤がありました。先ず一三三七年から一四五三年に跨る英佛百年戦争があります。それに続いてイタリヤ戦争があり、次で宗教改革に繋る宗教戦争、それから三十年戦争が起ります。更にオーストリヤ王位継承戦役と七年戦争が続きます。最後にナポレオン戦争、普佛戦争があって、概ねこれでドイツ、フランス、イギリスの三大国とこれを取巻く近代ヨーロッパ国家群が誕生するわけです。即ち中世ヨーロッパは数百年に及ぶ間歇性の陣痛の苦しみを経て、ようよう近代ヨーロッパ乃至現代世界を産み出したのです。
この間多国間での同盟関係、敵対関係の移動、変遷、夫々の勢力の拡大、衰退が繰返され、又停戦、講和条約の締結、破棄等も行われます。この為に外交、ディプロマシーは常に不可欠であり、あらゆる時代に於て外交術というものが研究され、練磨されて来たのです。こうして築き上げられたものを、外交文化と名付けてよいのではないかと私は思う次第です。
一方日本もまた中世から近世へ移行しています。それは応仁の乱、戦国時代から、江戸幕府に至るまでに行われたと考えられましょう。ところが、それが他国との交流が殆どなく、一国内だけで終ったために、色々な軋轢を解決しなければならないための外交という学問を全くしないで、明治維新になりました。その為だろうと思いますが、文明開化を標榜して、西洋の科学、思想、経済、教育、法律等、一切の文物に関心を持っていた中で、たゞ一つ外交を学ぶ気持がなかったようです。
さて、龍馬達が直面し、洞察した幕末の日本は、欧米人の目には、極東の未開の一小国としか映らない有様でした。それどころか日本列島全体を清帝国の一部と考える人も少なくありませんでした。それが明治の御代四十五年の間に、世界中が等しく認める列強の一として成立し、全国民が納税と徴兵の義務、国会への選擧権を持ち、六年間の義務教育を受ける近代国家となったのです。明治時代が成し遂げた物心両面に亙る新しい社会建設は、文化、教育、政治、経済等、あらゆる分野に於て遂行され、維新によって、日本は完全に生れ変りました。
整備され、強力になった明治政府にとって、日清、日露の両戰役は、当然の帰結というべきものでしょう。国家の基礎を盤石ならしめる為には、外侮の憂(うれい)を取除いておかねばなりません。清国は朝鮮、台湾の諸問題で日本を軽視していたし、ロシヤは満洲を占領して、日本に脅威を与えていました。
この両戰役の勝利は、日本の国威を大いに宣揚しました。日本がロシヤを打破ったという報道は、世界中を仰天させました。それ迄数世紀間、世界は欧米人に征服され続けるという歴史の流を変え兼ねない勢となりました。有色人種が白色人種に対して勝利を得たという事で、植民地となった世界の人々、就中アジヤ人達を啓発しました。江戸時代以前の日本の国ではなく、こうして大日本帝国が新に誕生したのであります。
今は、明治時代を悪く言うのが、一種の流行のようになっていますが、以ての外であると思います。幕末から明治維新の間、我国の命運は当に風前の灯火でした。ロシヤも、アメリカも、英佛両国も、日本植民地化の機会を、虎視眈々と狙っていました。当時、世界の大部分が、已に欧米諸国の領土と成り果てゝいたこの危機を脱して、自国の独立を全うし得たのは、偏に明治人の不断の、不屈不撓の努力のお蔭に外なりません。
日露戦争の終った時点に於て、日本は、こうして全国民一致協力のお蔭で、外国からの侵略、植民地化の破局を逃れる事ができました。江戸幕府の鎖国政策などによる数百年の文明開化の遅れを一気に取戻し、当時数少なかった近代国家の一員となる事ができたのです。かゝる日本の成長、近代化は世界史上未曾有の快擧であるとして、世界中が瞠目するところとなりました。
国家滅亡の窮苦を脱しなければならない維新の目的はこれで達成されたのです。それならば、それより以降、日本はどのように歩むべきか という事を、日露戦争の終った翌日より政府も国民も真剣に考えるべきだったと私は思慮します。内憂外患が一応除かれて、精神的余裕のできたこの時期に於て、充分に自らの脚下(あしもと)を照らす、照顧脚下が必要だったのです。つまり目的意識を持つ事、国家百年の大計を立てるべきだったでしょう。そうでないと国家も国民も徒に暴走、或いは迷走してしまいます。恰もその後数年にして明治の御代は終り、年号は大正と改元されます。これは国を擧げて心機一転する絶好の機会でした。然し当時これに気付いた人は少なかったようです。果して、それより後、特に大正三年に始まる第一次欧洲大戦以後はしきりに軍を大陸に派遣し、やがて世界の顰蹙を買うに至ります。
否もう済んでしまった過去を今更悔んでも仕方がない―そう言われる方もあるかと思います。然しそうではありません。確に大正から昭和の初頭にかけて、軍事行動のみを事として来た結果が昭和廿年の敗戦となってしまったのです。然しそれ以後専ら経済力の強化を推進した果に今や財政危機に陥っているではありませんか? 軍事力と経済力と、手段は異っても、国家が危殆に瀕するという結末を迎えたという事については、同様ではないでしょうか。曽ては世界三大強国の座から転落しましたが、此度は世界第二の経済大国の座から辷り落ちてしまったのです。
つまり大正及び昭和初頭に於て我国が冒した失敗を、現在の我々は又しても繰返しつゝあるのです。それは、一つにはヨーロッパでは数百年に亙る、諸国間相互の苦澁に充ちた外交体験を経て、ようやく中世を脱皮して近代世界を創り出した事実に気付く事なく、日本が近代世界の仲間入りをしてしまった事、二つには、直面する窮境を逃れる事のみに汲々として、遠い將来を見据えた深謀遠慮を疎かにしていたという事ができると思います。
従って、数百年来ヨーロッパ諸国、後にはロシヤ、アメリカも加わって行(おこな)って来た外交術(これを外交文化と言ってもよいかと考えますが)を、我々は真剣に学び始めては如何でしょうか。これは今からでも遅くはないと思います。
次に我国の將来に向っての進路を定める、国家百年の大計を立てなければならないでしょう。それは日本が世界に対して、何を求め、又世界に向って、何を与え、何を与える事ができるかを見究める事になるかと思います。幸い日本が過去二千年に亙って育て上げて来た思想、文化は、諸外国に比して決して見劣りのするものではなく、又大いに独自性を備えていると思われます。これを海外に向って発信して行く事は、未来の人類社会の為に多大の貢献をするに違いありません。
以上「日本文化興隆に向って」、私の拙い所懷を述べさせて戴きました。この後引続きシンポジウムで、諸先生方の御高説をお聞きしたいと存じます。御静聽ありがとうございました。
以上