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第10回親鸞賞記念講演「日本のこころ ―もののあはれ―」

一般財団法人本願寺文化興隆財団 理事長
大谷 暢順


大谷暢順理事長による基調講演

 はじめに
 本願寺文化興隆財団は日本文学、日本文化を国内外で高揚すべく、公益文化事業の一環として、この度のフィクション文学賞「親鸞賞」とノンフィクション文学賞「蓮如賞」を毎年交互に主催し、「親鸞賞」は本年で第十回目を迎えました。
 ともに「日本人の心」を深く考察する作品に授与する、京都で初めての文学賞として、四半世紀に及ぶ実績を重ね、大きな反響を呼んで来ました。又、他の文学賞とは異り、授賞式だけでなく、選考委員の先生方と受賞者によるシンポジウムを毎年、開いてきたほか、平成二十年には「日本人の智恵」を人類共通の叡智にと「京都文化マニフェスト」を京都市とともに世界に向って宣言しました。
 こうして、今年も亦、文学賞を通して皆様とともに日本精神と文化を再考し、その叡智を京都から世界に伝えて行きたく思っています。

 神佛習合と「もののあはれ」の精神
 さて、西暦六世紀に、佛教が我国に渡来し、爾来我国は佛教国となります。然(しか)しそれより古く、二千年以上の昔から、我国では独自の文明が発達し、八百万(やおよろず)の神々を敬う、今日神道と呼ばれる教(おしえ)を奉じて来ました。佛教伝来後も、この教は些(いささか)も搖ぐ事なく、やがて佛教と融合して、今日に至る迄日本人の魂の拠所(よりどころ)となって来ました。これを「神佛習合」と言います。
 神道は外来の佛教を知る事によってその教が昂(たか)められたし、佛教も神道と融合して、より深い境地、大乗の至極(しごく)に達し、両者は一体不可分の教法(きょうぼう)であります。
 神佛習合の思想を離れて、日本文化は存在し得ません。それは一体何故でしょうか? 私はそれを「もののあはれ」という一語に要約できると考えます。
 釈尊は「諸法無我(しょほうむが) 涅槃寂静(ねはんじゃくじょう) 一切皆苦(いっさいかいく)」と、この世は一切が苦しみであると喝破されました。これが日本に来て、神道の惟神(かんながら)の道に基く文化を知る事により、「一切皆苦」が「もののあはれ」という理念に、言而(いわば)、止揚(しよう)・アウフヘーベンされたと言えましょう。
 即(すなわ)ち「もの」というのは、一応「一切皆苦」の「一切」にあたると考えられるでしょう。佛教は世の中の凡(すべ)てが苦しみであると説き、それを超越・超克して寂静の涅槃の境地に達するよう教えます。然し日本人はその「一切」、「もの」、は「あはれ」だとして、苦しみを超越・克服するのではなく、苦しみの中に自らを没入させ、そこにしみじみとした情趣を感じる、救いを見出す。「もの」即ち自然、対象と、「あはれ」即ち人の心が融け合った中に、ありのままに心情が吐露される姿―と言ったらよいのでしょうか、つまり外の世界(一切、もの)を排除しない。その中に日本文学、日本文化は自らを生かして行く境地に到達し得たのです。
 世界最古の長編小説として名高い『源氏物語』は佛教の無常観、神佛習合思想の産んだ「もののあはれ」が核になっています。 

 「もののあはれ」を核とする日本文学
 昨今、「もののあはれ」は、「情けない、可哀そう」という意味の「哀れ」の一寸洒落た言い廻しぐらいに思っている人が少なくないようですが、これは如何なものでしょうか。 
 抑々(そもそも)「あはれ」は元々「ああ」という意味の感動詞で、今日のように「情けない、可哀そう」という意味の「哀れ」だけではありません。対象・外界に接した時に起る人間の感情、感動を「あはれ」と言ったのであります。そこには喜びも悲しみもあるでしょう。つまり、「ああ可哀いそう」という惟(おも)いもあるでしょうが、「ああ楽しい」「ああ嬉しい」或いは「ああ美しい」「なんて見事な」というような事凡てが「もののあはれ」です。そこで知性の覚(さとり)である釈尊の佛教が、感性の覚の世界に止揚された、佛教がアウフヘーベンされた姿が「もののあはれ」ではないかと私は思っています。
 是(かく)の如く我国で独自に培われた神佛習合の教の因(もと)に開花した、『源氏物語』をはじめとした多くの日本文学は、実に人間性の目覚め、発見を示しています。而してその濫觴(らんしょう)は万葉集、又もっと遡って、古事記などにも認められます。
 唯(ただ)その人間性発見は、西洋の人間主義と違って、言而(いわば)心情的であったと言えます。日本の文学は概して抒情的傾向が強く、平たく言えば、西洋の理性的であるのに対して、我国は感情的又は感性的でありましょう。
 要約致しますと、佛教と神道が互いに育て合う事により、その教は深博無涯(しんぱくむがい)の境地に達して、「もののあはれ」を核とする『源氏物語』等の文学、運慶・湛慶の佛像や寺社建築等を生み出し、他の佛教国には見られない比類なき日本文化が誕生したのです。
 先に申しました三法印(さんぼういん)、即ち「諸法無我 涅槃寂静 一切皆苦」の原始佛教の教に、我国古来の神道が融合して、もののあはれという平安時代思潮を産み出したと申しましたが、又佛教の重要命題の一つである「縁」(プラティヤヤ)の思想からも誘発されて、もののあはれが感得されたとも私は考えます。

  色はにほへど散りぬるを、わが世たれぞ常ならむ

 という無常感に打たれる事が「縁」となって、

  有為の奥山けふ越えて、浅き夢見じ酔もせず

 の解脱の境地に達するこの教は、元々涅槃経の中の雪山偈(せっせんげ)「諸行無常 是生滅法(ぜしょうめっぽう) 生滅滅已(しょうめつめつい) 寂滅為楽(じゃくめついらく)」から作られた今様ですが、雪山偈の論理的構成が、いろは歌の抒情詩に転化されている事に注目したいと思います。

 日本人と「縁」の教え
 抑々佛教では、凡ての物事に因果の法則が支配していると説きますが、「その果を生ずる因を助成する事情、条件」があると強調されます。つまり、一つの物事が起る為には、様々の要因が重なって、初めて可能になるのです。一つの「果」が生ずる為には「因」(直接原因)の他に多くの「縁」(間接原因)が伴なわなければならないという謂(わけ)です。そこで多くの縁で事が成就する故に、縁とはお互いに相寄る物という意味になり、そこから、所縁(しょえん)、拠(よりどころ)、の事になりました。
 縁という言葉は、従って、物事についてもさる事乍(なが)ら、人間関係、人と人との出逢いについて、特別の関心、或いは感慨を以て考えられます。即ち未来に起る事象を、偶然として片付けるのではなく、「必然」と言うか、むしろ物事の一つ一つは、独立、単独に発生したり、存在したりするのではない、縦横無尽に?(つなが)り合って、広大無辺の網の各々一つの目の如くなって、観察されるべきだという事になるのです。
 「もののあはれ」も、この縁の思想に深く影響されています。源氏物語の登場人物達は、不思議な過去世からの縁のお蔭で、互いに結び合わされ、亦離別させられるのです。彼等はそれによって恋の喜びにときめき、又悩み苦しみもします。
 「縁」の漢字から「えに」「えにし」と言葉が和風化されたのを見ても佛教の縁の思想が如何に日本人に共感を与えたか首肯されるところです。
 今日我々は折にふれて「これは何かの御縁でしょう」とか、「不思議な御縁に巡り合いまして」―等と、目前の事象に対し、不思議であり、予期できなかった事態としつつも、そうなるべき縁があった、何か当然の理由があって起ったと感じ取るでしょう。
 平安期の物語文学に現れる「もののあはれ」のような高邁な文学思想から現代の我々の日常会話にまで、この佛教の「縁」の教が沁み入っているのです。

 おわりに
 今我々は二千数百年の悠遠の歳月の中に、神の教、佛の教、もののあはれ、「縁」と絶える事なく、然も不断に深化発展して来た日本の歴史、文化、日本の心、に惟(おも)いを致したいものであります。
 今日の授賞式も縦横無尽に繋り合った「縁」によって開かれたものであり、この「縁」を来場の皆様とともに感じ、喜び合おうではありませんか。
 我々の文学賞「親鸞賞」は、この日本文化高揚を目的として設立され、今回を以てめでたく十回目を迎える事となりましたが、此度もこの精神に則って『今ひとたびの、和泉式部』という、諸田玲子さんの力作を見出す事ができました。後程選考委員と、受賞された諸田さんのお話をゆっくり伺いたいと思います。どうぞ御期待下さい。
 御清聴、有難うございました。

以上