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本願寺近代三代傳持顕彰、大谷暢順台下米寿祝賀会

 当財団は本願寺近代三代傳持顕彰と大谷暢順台下米寿の祝賀会を3月3日、京都市内のホテルで開催、斯界の第一人者約150人が集い、「勧学布教、学事の振興」を結実させた台下の偉業を讃えました。
 宴では、台下自らが本願寺近代三代傳持の歴史とその願いについて講演されたほか、特設の展示室、DVD上映、記念冊子等によって当財団の活動を説明。仏教界各派のご門主、我が国を代表する文化人、国会議員、京都市長等から大きな賛同と共感を得るとともに、阿波踊りを出席者全員で踊る等、当財団理事長の米寿と新著『私たちは今の世をどう生きるか』の出版も寿ぎました。
 御開山(ごかいさん)親鸞聖人、2世如信(にょしん)上人、3世覚如(かくにょ)上人の三代傳持(さんだいでんじ)に始まり、8世蓮如上人が開花させた本願寺の法統(ほうとう)。一時期、陰りを見せたこの法統は21世厳如(ごんにょ)、23世彰如(しょうにょ)の両上人の至願である「勧学布教、学事の振興」を受け継いだ經如(きょうにょ)上人・当財団理事長の近代三代傳持と讃仰される三上人によって結実されました。祝宴は東山浄苑東本願寺を拠点に国内外で日本の文化と精神を昂揚(こうよう)して、法統を再興した当財団理事長の偉業を讃え、企画されたものです。
 宴は先ず、山東昭子参議院議員等の祝辞で幕開けしました。2回にわたって当財団のフランス事業を日仏友好議連会長として共催した山東議員は「日本の文化と精神を世界に伝える台下の並々ならぬ意欲とその偉業に感服した」と台下の業績を讃えました。
 総理大臣・安倍晋三自民党総裁から「最も歴史ある財団として、伝統ある日本文化とその精神を広く国内をはじめ、フランスやスリランカ等海外でも紹介し、多大なる成果をあげてこられた」と賞賛された祝電、祝花を披露した後、台下が宴のテーマである本願寺近代三代傳持をご説明(全文掲載)。感銘を受けた政治家、文化人等からその原稿を求める声が次々と寄せられる等、会場は大きな共感と賛同の渦に包まれました。
 そして、当財団職員による当財団の活動実績報告と記念品の謹呈、慶事を祝う鏡開きと紅白の餅つき、職員の合唱、1月にスリランカで行った同国独立70周年記念コンサートに出演した徳島県鳴門市の阿波踊り公演と続き、最後に参加者全員が阿波踊りに挑戦する等、賑々しく宴を繰り広げました。


多くの感銘が寄せられた台下の講演
   多くの感銘が寄せられた台下の講演 (講演の全文はこちら
  
慶事を祝う鏡開き
   慶事を祝う鏡開き
    
慶事を祝う紅白餅つき
   慶事を祝う紅白餅つき
    
台下の功績を讃える山東参議院議員
   台下の功績を讃える山東参議院議員
    
記念品の輪袈裟を贈られる台下
   記念品の輪袈裟を贈られる台下
    
清興の職員による合唱
   清興の職員による合唱
    
台下ご染筆の扇子を手にしての阿波踊り
   台下ご染筆の扇子を手にしての阿波踊り
    
賑々しく会場一体で阿波踊りに挑戦1
   賑々しく会場一体で阿波踊りに挑戦1
               
賑々しく会場一体で阿波踊りに挑戦2
   賑々しく会場一体で阿波踊りに挑戦2
               
財団の活動や台下の叙勲等を展示
   財団の活動や台下の叙勲等を展示
    
総理大臣・安倍晋三自民党総裁等からの祝花
   総理大臣・安倍晋三自民党総裁等からの祝花




大谷暢順御法主台下のご講演全文


 本日は本願寺近代三代傳持結実の祝宴に、かくも大勢の方々にお集まりいただき、誠に有難う存じます。このテーマは大層に聞えますが、私の曽々祖父の嚴如(ごんにょ)と、祖父の彰如(しょうにょ)、そして私の三代に亙って、浄土真宗の教えをもとに、日本佛教の興隆と日本文化の昂揚を目指す気持を一貫して受け継いで来たという事から、本願寺近代三代傳持と申しました。これだけではお分り辛(づら)いと思いますので、この三代についてお話しさせていただきます。


  嚴如(ごんにょ)

 まず、曽々祖父の嚴如は、幕末から明治にかけて、東本願寺の法主でした。その頃、西洋思想が津波のように日本列島に押し寄せて、日本佛教や従来の日本の文化が呑み込まれてしまいそうな危機に対して、嚴如はどう対抗すべきか腐心いたしました。

 又明治初年に発せられた神佛分離令にも大変苦しめられました。この法令は神(かみ)・神社のみを残し、実質的に佛教を廃絶させる意図を含んでいました。今日の政教分離令も政治と宗教を分離するとしながら、結局は日本を無宗教国家にしかねない恐ろしい法令で、私は一日も早く撤廃されるべきだと考えております。これは余談としまして、外からは西洋思想、国内では神佛分離令に彼は悩まされました。

 これにより、佛教界は甚大な抑圧を受けまして、嚴如も僧服でいることを許されず、神主の装束(しょうぞく)着用を強いられたりしています。他宗の僧侶もそうだったと思いますが、私は神主姿の嚴如の写真を見た事があります。

 全国的に寺院や佛像の破壊が公然と行われ、それに抵抗する暴動が起っています。今の愛知県の岡崎の近くで、東本願寺の門徒が起した所謂(いわゆる)大浜(おおはま)騒動では多数の死者を出し、容赦なく弾圧された後、十数名が処刑されるという悲劇が起っております。嚴如は大いに心を悩ませ、この分離令の撤廃に、他宗の人々とも連携して、ようよう明治五年に撤廃に漕ぎつけます。その他、新しい西洋の文明、民主主義思想などに対抗する為、江戸時代から続く固定化された寺壇(じだん)制度を脱却する方途を模索しております。


  彰如(しょうにょ)

 次に祖父の彰如は、大正年間に法主の地位にありました。この時代は概ね社会の左傾化が進んだ時代であります。それに第一次世界大戦後、ロシヤで起った共産主義革命が日本に伝播(でんぱ)する事に彰如は危機感を持ち、心を砕きます。そこで、日本全国を十数回に亙って教化布教の巡化(じゅんけ)に出かけました。

 例えば日露戦争直後、百数十人の学生や、末寺の住職達を連れて、北海道一円から旅して、続けて日露戦争後、日本領となった南樺太も隈なく歩いております。大泊から、南樺太の一番北の端にある敷香(しくか)まで足を延ばしております。

 教化布教に尽力した彰如は、俳句にも秀でており、正岡子規の一番弟子である高浜虚子とも親交を重ねました。彼は浄土真宗の信仰を俳句に詠み、教化布教の一助にして、当時の俳壇で大いに評価されています。

 さらに、彰如は我々の本願寺文化興隆財団を設立致しました。これは幕末以来、東本願寺が多額の借財を背負っていたのを彼一代で返済すると同時に、今後はそういう事がないよう、安定した本願寺の経営を目指して、経常費を獲得するだけでなく、資産の蓄積とその利息による経営を計ったのです。そこで改めて数回に亙(わた)って全国を巡化し、当時のお金で三百五十万円もの募財を集めました。

 ところが、その際東本願寺内で派閥闘争が起りました。恥ずかしい事ですが、その結果、甚だしく経理状況が杜撰(ずさん)になり、折角祖父が集めた三百五十万、今日の貨幣価値では三百五十億円程にも当るかと思われますが、その資産が、どういう訳か雲散霧消してしまった為、財団は全く資産がなく、休眠状態に等しい状態となってしまいました。


  

 私は昭和四十六年から現在に至るまで、本願寺文化興隆財団の理事長をしておりますが、就任直後は全く無資産の状態で大いに苦しみました。ところがその頃、東本願寺内で再び派閥闘争が起りまして、当時計画された六条山の東山浄苑東本願寺建設が宙に浮いてしまい、私が大谷派と本願寺から依頼を受けまして、この建設を引き継ぐ事になりました。とても難儀でして、この事業は当然挫折すると見られていましたが、休眠状態同様の財団を使い、粉骨砕身、奮闘を続けました。以来、四十年以上になりますが、世界最大・最高の納骨墓所を作り上げる事ができました。これは私の力ではなく、偏(ひとえ)に佛祖の冥祐(みょうゆう)と感謝しております。
 こうして私は嚴如、彰如の両代に亙る勧学布教・学事の振興、つまり日本佛教の昂揚と日本文化の推進という事に一応の成果を得たかと自負している次第であります。


  総覧

 さて、日本佛教は世界の佛教の中で特に深遠な境地に達していると私は確信しております。嘗てスリランカの世界遺産・佛歯寺(ぶっしじ)で国際佛教博物館を作る際、私はその日本部門の依頼をスリランカ政府、並びに日本政府から受けました。そこで何人かの佛教各宗の高僧や佛教学者に協力をお願いし、「この日本部門を作るに当って、インドで成立した佛教がどのようにして大陸を横断して来て、日本に伝わったかという事は些(いささ)かも表わす必要はないでしょう。それよりも、日本佛教が如何に他国の佛教と比べて崇高なものであるかを示す展示をしたく存じます」と申しました。碩学の先生方に向って口幅ったいとは思い乍ら、それでもこの機会に、日本佛教がどんなに深く、高いものであるかを海外に認識して貰わなければとの一念で、敢えてこう具陳(ぐちん)したわけであります。国際佛教博物館は世界十六か国が出展したのですが、日本館の評価が最も高く且つ参観者も多いと最近聞きまして、聊(いささ)か安堵している次第であります。

 大陸から渡って来た日本佛教が太古以来の神道の教えと融合する事によって、神佛習合という高く深い理念が形成されたと私は思っています。明治時代に間違った神佛分離が考えられましたが、神道と佛教は一体不可分の教法(きょうぼう)であります。神道は外来の佛教を知る事によってその教えが昂(たか)められたし、佛教も神道と融合して、より深い境地、大乗の至極(しごく)に達し得たのであります。

 更に神佛習合の思想を離れて、日本文化は存在し得ません。それは一体何かということですが、私は「もののあはれ」であると考えます。釈尊は「諸法無我 涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)一切皆苦」と、この世は一切が苦しみであると喝破されました。これが日本に来て、神道の惟神(かんながら)の道が作り出した文化を知る事により、「一切皆苦」が「もののあはれ」という理念に、言而(いわば)止揚(しよう)・アウフヘーベンされたと思います。

 即ち「もの」というのは、「一切皆苦」の「一切」にあたると考えられるでしょう。何もかもがみな苦しみだ。苦しみを超越・超克して行くのが佛教の教えで、その「一切」、「もの」、は「あはれ」だとして、苦しみを超越・克服するのではなく、苦しみの中に自らを没入させ、そこにしみじみとした情趣を感じる、救いを見出す。つまり外の世界(一切、もの、)を排除しない。その中に日本文学、日本文化は自らを生かして行く境地に到達したのではないでしょうか。

 昨今、「もののあはれ」は、「情けない、可哀そう」という意味の「哀れ」の一寸洒落た言い廻しぐらいに思っている人が少なくないようですが、これは如何なものでしょうか。 

 抑々(そもそも)「あはれ」は元々「あゝ」という意味の感動詞で、今日のように「情けない、可哀そう」という意味の「哀れ」だけではありません。対象・外界に接した時に起る人間の感情、感動を「あはれ」と言ったのであります。そこには喜びも悲しみもあるでしょう。つまり、「あゝかわいそう」というのもあるでしょうが、「あゝ楽しい」「あゝうれしい」或いは「あゝ美しい」「なんて見事な」というような事全てが「もののあはれ」です。そこで知性的な覚(さとり)である釈尊の佛教が、感性の覚の世界に、つまり佛教がアウフヘーベンされた姿が「もののあはれ」ではないかと私は思っております。

 改めて結論を申しますと、佛教と神道が互いに育て合う事により、その教は深博無涯(しんぱくむがい)の境地に達して、『源氏物語』等の文学、運慶・湛慶の佛像や寺院建築等を生み出し、他の佛教国には見られない比類なき日本文化が生れたと私は思います。

 このように、嚴如、彰如、そして私、三代に亙りまして我々は僭越乍ら、今日迄日本佛教、日本文化発展の一端を担って来たと自負致している次第であります。

 お忙しい中を枉げて本日茲に御来会下さいました皆々様から今後とも何かと御指導、御鞭撻頂戴しつゝ私は今後共これを国内国外に推進して行きたく存ずる次第でございます。

 よろしくお願い申上げます。