大谷暢順当財団理事長が新著『歴史に学ぶ蓮如の道‐日本再生を求めて』を海竜社から上梓(じょうし)しました。蓮如上人の半生、み教えの要諦(ようてい)を説き明かしつつ、佛法に基づく日本の再生を追求された渾身の力作です。作品へ寄せる願い等を理事長に聞きました。
(吉崎御坊蓮如上人記念館)
― まず、第一部で蓮如上人の半生、第二部では上人のみ教えを解説されました。その中で、上人は本願寺再興や教団の拡張を目的にされていなかったという興味深い新説を発表されています。
理事長
蓮如上人は、今まで流布(るふ)されてきたように本願寺を大きなお寺に、あるいは、浄土真宗全体の要となる大本山にしようとして布教活動を始められたのではなかったことを強調したかったのです。
では、上人は何を目的に布教されたのか。それは佛の救いを自ら悦び、その悦びをみんなに分け与える、これを一生やっていこうと志された。後年、名誉や満ち足りた生活を得られても、死んで極楽浄土に生まれたい気持は、生涯お変りなかったのです。
部屋住時代の上人は、極貧に加え、継母や異母兄弟から邪慳(じゃけん)にされました。そこで、家庭の寂しさ、物質的なひもじさ、仲間外れにされた悲しみ、恨み、憎しみ等、わが身に受けるすべては、平生の業(ごう)を成就させるために佛様から与えられたものだということを解(わか)られたのです。この時に信仰を得て、平生業(へいぜいごう)成(じょう)の正定聚(しょうじょうじゅ)の位につき、滅度(めつど)、覚(さとり)の世界にいく約束を得られたのです。
そこで上人は、この恩に報いるためには人に佛法を説くことである、自分と同じように救いを人たちに与えることだと決意された。吉崎以降、広大な寺内町もでき、豊かな生活と社会的地位も得られるのですが、これも佛様の御恩と悦ばれたのです。
― 極貧生活の中で上人は信心獲得(ぎゃくとく)されたのですね。
理事長
皆さんに申し上げたいのは、貧乏、富貴のどちらとも心の救いとは別ということです。
人生の底辺に落ちて、一番下の岩盤に突き当たって、そこで救いに出遇えたという話を聞きます。第二次大戦でシベリアに抑留され、辛苦の果(はて)に還ってきた後、国史学界に新風を巻き起こした学者もいますが、不幸のどん底だったから信心を得られたとは言い切れない。
むしろ、貧窮のどん底も佛様の御導きであるし、仕合せの満ち足りた生活も佛様の下さったもの。それを悦べるのが信心なのです。
日本一の教団になったのはあくまでも手段の結果であり、上人の目的は個人個人の信心獲得だったのです。
― 理事長は常々、「人間は信心を得るために生まれてきた」と説かれています。
理事長
誰しもどうして自分はこの世にいるのかと思うでしょう。人生とは何か、なぜ自分はここにいるのかということを問い続けます。しかし、その答をほとんどの人は得られずに、あきらめて何となく生きて、この人生を充実させればよいというふうに考えてすませてしまう。その結果、充実しない、満ち足りない、空疎な人生を終えることとなるのです。
そこで近年、折に触れて申しているのは、人生の目的とは信仰を得ること。何故(なぜ)ならば、人間は、業(カルマ)を背負って生きている。業(ごう)縁(えん)に押されて生きている。そうすると新たな業ができ、その業がまた次の業を生む。この業の連鎖によって遙か昔から生まれ変わり、死に変りして今日に至るのです。
その業を背負っている限り、その業は更に新たな業を生むから、いつまでたってもこれは終ることはない。だから今の人生を持っていても、その人生は、ただその業に押し流されているだけで、いつまでも救いに至らない。
人間の救いとは何か。その業がすっぱり断ち切られること。業が終わること、輪廻(りんね)する業が終ることが救いなのです。そういうことを知らずに、人間は金持になろうとか、健康でありたいとか、社会的に立派な地位を得ようとか、だけどそれが達せられても達せられなくても、途中の段階にしか過ぎない。どこまでいってもそれは終らない。そこで命が尽きて、また次の命を得る。永久に終らない。
業がなくなること、尽きることによって、はじめて人間は、仕合せを得られる。それが極楽浄土であり、また覚(さとり)の世界でもあるのです。
― 私たち凡夫(ぼんぷ)は、生前に業が尽きることを覚(さと)ることが難しい。
理事長
人間は煩悩の固まりで、その姿は真水を欠いて塩水を飲むことに喩(たと)えられます。喉が渇いて仕方なく塩水を飲む。そうすると一層、渇きをうむ。飲めば飲む程、渇きはおさまらない。これこそが業の姿。それを渇愛(タンハ)というのです。
前世のお釈迦様が木から飛び降りて羅刹(らせつ)に自分の命を与えようとしたお話があります。
雪山(せっせん)(ヒマラヤ)でお釈迦様が修行されていたら、「いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ」という美しい歌が聞こえてきた。それを聞いて、長年求めてきた覚(さとり)の道に一条の光明を得た思いをされ、その先を聴かせてくれと羅刹に頼んだところ、お釈迦さまの命を求められる。
そこで、お釈迦さまは羅刹に食べられるため、木に登られると、続きの「うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせす」という歌を聞いた。
お釈迦さまは、この業がなくなれば、すなわち、生滅(しょうめつ)の法が全部尽きたときに仕合せがくる、ありがとう、私は救われた、わたしの体をあなたにあげようと言って枝から飛び降りられた。すると、羅刹は帝釈天(たいしゃくてん)に変わり、落ちてくるお釈迦様を抱えて、この人は本当の覚を得た、覚者になられたと祝福した、というのが雪山の物語です。
この「有為(うい)の奥山…」はつまり、平生業成(へいぜいごうじょう)なのです。平生の時、生きている間に業が出来上がれば、業が成就、終了する。生まれては死に生まれては死にという業縁がすべて終るのです。
そこに寂滅(じゃくめつ)為(い)楽(らく)、寂滅を楽とする仕合せ(スクハ)がある。そして、スクハのある国(スクハーヴァティー)、つまり極楽へ生まれるのです。蓮如上人は部屋住時代の苦しい中、それを解られた。
― 平生業成についてもう少しご教示下さい。
理事長
上人は、業が尽きることが解られた。業が尽きるのは、極楽に生れたときに尽きるのです。この世では尽きない。
しかし、この世で信心を得ると、正定聚(しょうじょうじゅ)の位に住することとなる。極楽へ生れると決った存在の仲間に入ることができるのです。
浄土真宗の教えには二つの利益(りやく)があり、その一つは現世で得る益、すなわち、正定聚の位です。来世においては滅度、つまり涅槃、覚という楽があります。この世で信心を獲得したら、ついに来世に往(い)って極楽に生れるという益が、そこで決る。つまり、信心を得たら、その仕合せがずっと続いて、死後の来世、すなわち、浄土までの道がつながる。そして、そこからは不退転(ふたいてん)の位で、退くことはないのです。これが平生業成です。
― 信心を得ると極楽へつながるのですか。
理事長
親鸞聖人の和讃に「超世(ちょうせ)の悲願ききしより われらは生死(しょうじ)の凡夫かは 有漏(うろ)の穢身(えしん)はかはらねど こころは浄土にあそぶなり」とあります。聖人は信仰を得ても身心は俗塵(ぞくじん)にまみれて暮らしている、しかし、信心の悦びに満ち、心は浄土に遊ぶ、そういう境地へいっているとされた。
振り返れば、私も様々な過ちや罪を犯し、その罪が新しい罪を作り、人から仇を受け、憎しみも持ちました。むろん、蓮如上人より信仰が足りないことは自覚していますが、そういうことは、佛様が下さったことだと思えるようになりました。
業を積み重ねて、そして、その業が全部尽きるように佛様から仕向けられている、業が全部尽きる時に、本当の仕合せ(スクハ)がくる。佛様が私に業を作って、ここへ押し込んできて下さったと感謝しています。
― 第三部は、浄土真宗のみ教えを基に日本の近現代の歴史を通して、わが国の進むべき姿を提案されました。他に類をみない労作ですね。
理事長
今の日本は、経済の発展にのみ腐心していますが、それは手段であって目的ではないと思うのです。私が作った五訓にあるように、日本人たること、佛教徒であることに誇りを持ち、その精神を世界に弘めることが大切なのです。
日本と日本人を立派にするために、経済を盛んにするのはわかる。しかし、佛教を中心とした物の考え方、それに基づかれた蓮如上人の御生涯、生きられた道を学び、これを教訓、あるいは、一つの解決の処方として提示すれば、世界の多くの人の目を開くのではないでしょうか。この智慧を蓮如上人の道、「蓮如イスム」と名付け、皆さんに考えてもらう機会になればと思っています。
― 近現代史に独自の歴史観でメスを入れられ、今からでも遅くない、国家百年の大計を立てるべしとされていますね。
理事長
過去に繰り返された外交の不手際は、現在も続いています。むしろ、今の方が慨嘆すべき状況です。
これは、外交の根本となる日本人の確たる精神、文化が欠落しているからではないでしょうか。明治の富国強兵も手段であったにも関わらず、ひたすら軍事力のみを増大し、皇国神道に偏向した結果、悲惨な結果を招きました。そして、戦後、驚異的に経済再建を成し遂げたが、今や肝心の経済が後退しつつある。
要するに軍事力も経済力も国家社会運営の手段に過ぎないのです。手段のみに忙殺されると、何時(いつ)も必ず同じ轍(わだち)にはまって転倒する。
だからこそ、国家にとって新たなヴィジョンが必要なのです。
私は正か邪かの「二元論」ではない、寛容、融和、和の精神によって育まれた神佛習合の日本佛教、佛教文化を日本のヴィジョンとし、それを日本人が胸を張って世界へ発信することで混迷する国際社会を救えると信じています。
四六判、三六七ページ、本体価格一、八〇〇円(税別)、海竜社刊(東京都中央区築地二ノ一一ノ二六)。