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吉崎御坊蓮如上人記念館開館20周年

 吉崎御坊蓮如上人記念館(福井県あわら市)では4月21日、開館20周年を祝う記念式典、シンポジウム、特別展「蓮如上人展」を開催しました。共催はあわら市、後援が福井県坂井市、石川県加賀市、地元メディア。
 式典は、大谷暢順本願寺御法主台下(だいか)(当財団理事長)、大谷祥子本願寺御裏方(おうらかた)(当財団参議)と佐々木康男あわら市長、来賓の稲田朋美氏(衆議院議員)、山折哲雄氏(宗教学者・当財団蓮如賞選考委員)、金龍静師(本願寺史料研究所前副所長)、西川一誠福井県知事(代理)による特別展のテープカットで幕開けしました。
 地元市民等約200人が参加する中、上人研究の第一人者・金龍師による蓮如館での特別展解説、会場を館内鳳凰閣に移しての佐々木あわら市長の主催者挨拶、稲田氏と西川知事の来賓祝辞と続きました。
 この後、上人の吉崎下向に関する新説を発表した台下の記念講演(全文ははこちら)、パネリストに稲田氏、山折氏、金龍師を迎えたシンポジウムを催して、上人の偉業を讃えるとともに、日本で唯一、上人を顕彰する記念館の役割に大きな期待が寄せられました(シンポジウム要旨はこちら)。


特別展「蓮如上人展」のテープカット
  特別展「蓮如上人展」のテープカット




【シンポジウム パネリスト発言要旨(文責財団編集部)】

  金龍静師(本願寺史料研究所前副所長)

 苦ばかりだった日本人の精神史の中で、今は当たり前になっている手を合わせることで救いや安らぎの念が生まれたのが15世紀のここ吉崎の地。そこで、これを説き広めた蓮如上人の下に雲霞(うんか)の如く群参が押し寄せたのです。
 また、識字率が低く、方言から共通の会話が難しかった当時、上人の「御文」を数日間かけて暗記するため、宿坊や多屋(たや)が建てられます。こうして、「滞在型、学習型」の町造りである寺内町が吉崎に誕生し、その後、大阪等でも建立されていきます。
 まさに吉崎は日本人の精神史のエポックと言えるでしょう。地元市町村の「物見遊山」の観光だけではなく、上人の精神を活かした現在の町造り、地域振興に期待したく思います。


  山折哲雄氏(宗教学者・当財団蓮如賞選考委員)

 蓮如上人は善行(ぜんぎょう)を積めと「御文(おふみ)」で勧めました。人は良い行いをしても限界がある、だから、その先は阿弥陀様にお任せする、すると、阿弥陀様のお陰でと感謝の念仏が出てくると上人は説かれたのです。これは、今の日本人の心を方向付けた言葉でした。
 また、一家の安泰、家内安全を諭した上人の遺言状は百年後の戦国武将に大きな影響を与えます。「国盗りの時代」を生きた上人の考えは、高齢化社会等、今日の日本の現状と未来を考えるのに重要な問題ではないでしょうか。
 最後に同時代の上人、世阿弥、千利休が日本の文化、精神をどう広めたかを次世代に伝えるのが我々の責任であり、その意味で吉崎が非常に重要だと思っています。


  稲田朋美氏(衆議院議員)

 「日本 福井化計画」を申し上げてきたのは、日本人の素晴らしさを今なお色濃く残して、福井自体がまさにクールジャパンと思うからです。ここには善行を重ね、信心を大切にして家族、地域、そして、国を想うという蓮如上人の教えが根底にあります。
 私はクールジャパン担当大臣時代に日本の魅力をいかに世界に伝えるかで腐心しました。文化や芸術も素晴らしいのですが、エネルギーや高齢化等の社会問題に対して、私のスローガンでもある「伝統と創造」の精神を以ってしなやかに解決し、世界から尊敬されるのもクールジャパンだと思います。
 本願寺文化興隆財団、大谷理事長はクールジャパンの先頭を走って来られました。その意味でも、吉崎を拠点にしてクールジャパンを皆様とともに進めていくことを願っています。
    

上人の偉業を各視点から讃えたシンポジウム
   上人の偉業を各視点から讃えたシンポジウム




各紙で報道 財団蔵・上人真筆「大坂」最古の記述

 吉崎御坊蓮如上人記念館開館20周年特別展の目玉として、地名・大坂(現大阪)の初見となる蓮如上人真筆和歌草稿(当財団所蔵)を特別公開しました。これは4月20日の産経新聞朝刊1面に掲載されたほか、毎日、日経の各紙のほか、地元紙でも大きく取り上げられました。
 特別展「蓮如上人展」は7月28日まで (お問い合わせ 電話0776-75-2200)。

    

目玉となった「大坂」の地名の初見資料等を展示
   目玉となった「大坂」の地名の初見資料等を展示




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吉崎御坊蓮如上人記念館開館二十周年記念講演 全文

本願寺法主
本願寺文化興隆財団理事長
大谷暢順


 本願寺と致しまして、蓮如上人に縁(ゆかり)の深い吉崎の地で、是非共上人を顕彰申上げたいと思い、この吉崎御坊蓮如上人記念館を設立しましたが、爾来、早や二十年を経過しました。
 そこで本日こうしてその祝賀式典を催しましたところ、かくも大勢の方々にお集りいただきありがたく存じています。
 蓮如上人は御開山親鸞聖人から数えて八代目の善知識として西暦の一四一五年、誕生されましたが、それ迄歴代、顕学の善知識が相次いだにも拘らず、本願寺は「人セキタヘ(エ)テ参詣ノ人一人モミエサセタマハズ、サビサビトオハ(ワ)シマス」と『本福寺跡書』にある如く、寂(さび)れ切っていました。
 蓮如上人は、是非共浄土真宗の御教を弘めて、多くの人々を救わなければ、とその参詣の一人もない寂しい本願寺の中で確く決意されました。
 蓮如上人は文明三年、西暦にして一四七一年、吉崎へ来られますが、それより以前、寛正六年(一四六五年)比叡山延暦寺の衆徒の為に、京の都の東山の麓にありました本願寺を破却されて、畿内各地を転々とされますが、やがて近江の湖南地方・赤野井、荒見、手原、金ヶ森等で布教を再開されます。然しその度に比叡山の衆徒は、武力攻撃を加えて来て、蓮如上人はこれを逃れて、これ等の在所を転々とされ、その後湖西の堅田に移って、そこでやっと比叡山との和解が一旦成立します。
 ところがそれから一年も経たない応仁二年(一四六八年)、山門はこの和睦を自ら破って、大軍を以て堅田を攻めます。そこで又もや上人は難を逃れて、やはり湖西の三井寺へ行かれます。三井寺は山門と同じ天台宗ですが、両寺は古来敵対関係にあり、山門としては容易にこの寺へ攻めかゝる謂には行きません。それ故上人もようやく一時(いっとき)の平穏を得られる事になります。
 忽ち門徒達は大擧して三井寺の上人の許へ群参し来り、お蔭で三井寺は大繁盛します。然し何と言っても、こゝでは居候のような形であり、又山門衆徒の危険があるので、上人自身は三井寺の外へは出られません。
 そこで上人の吉崎下向となるのですが、御文を見ますと、

 文明(フンメイ) 第三(タイサム) 初夏(ソカ) 上旬(シヤウシユン)ノ コロ ヨリ
 江州(カウシウ) 志賀郡(シカノコホリ) 大津(オホツ) 三井寺(ミ井テラノ) 南別所(ミナミヘチシヨ) 
 邊(ヘン) ヨリ ナニト ナク 不鄙(フト) シノヒ
 イテヽ 越前(エチせン) 加賀(カカ) 諸所(シヨシヨ)を 経廻(ケイクワイ) 
 セシメ ヲハリヌ ヨテ 當国(タウコク)
 細呂宜郷(ホソロキノカウノ) 内(ウチ) 吉崎(ヨシサキ)ト イフ コノ
 在所(サイシヨ) スクレテ オモシロキ アヒタ・・・

 文明三年四月上旬頃、近江国志賀郡大津の三井寺の南別所辺から、何となく、ふと思い立って、あまり人目につかないよう旅に出て、越前、加賀のあちこちを歩き廻った。そうすると、この国(越前)の細呂宜の郷の中にある吉崎というこの在所が、大へん風景がよいので・・・
 (『蓮如の御文』より)

 と、まるでふらっと旅行に出たら、吉崎という景色のよい所を見付けたので、そこに住む事にした、という物見遊山の気まぐれみたいな書き方です。
 数年間に亙って、山門の衆徒達の襲撃に遭いながらも、次々と所を換え、死線を越えて、教化布教に専念して来られたとはとても思えない淡々とした書き振りです。 
 然し事実はそれだけではありません。上人はこの文明三年の北陸下向で初めて吉崎の地を見られたのではなく、又この六年間の山門の衆徒達から、都と近江に於ける上人の教化の旅に対する妨害を蒙(う)けて初めて都を離れる決意をされたのでもありません。

 これは今日誰も一向に注目していない事ですが、蓮如上人が本願寺住職を継がれた長禄元年(一四五七年)、即ち山門衆徒によって本願寺の破却される十年前、或いはそれよりもっと以前から、将来、都やその近郊での布教活動は不可能になるだろう。どこか遠隔の地に拠点を見付けておかなければなるまいと予測しておられたのです。
 当時の本願寺は、先程も申しました通り、「人セキタヘ(エ)テ参詣ノ人一人モミエサセタマハズ、サビ く トオハ(ワ)シマス」という風にお参りに来る人もなく寂(さび)れ切っていました。比叡山の衆徒達が後々この貧乏寺を襲って来る事になろうとは到底想像もつかない有様でした。当に恐るべき慧眼(予知能力)であります。
 そこで上人は河内、摂津(今日の大阪府)や吉野地方、三河(今日の愛知県)、そして北陸一帯を旅した結果、この吉崎が最適の地であるとの結論に達せられたのです。
 その証據に寛正元年(一四六〇年)、上人本願寺継職後三年目に、上人の次男・蓮乘を加賀二俣本泉寺へ叔父如乘の養子として送り、又四男・蓮誓を吉崎対岸の鹿島明神へ派遣されています。
 次にもう一つ動かぬ証據は、元(もと)興福寺別当であった經覚という人の文正元年(一四六六年)(これは本願寺継職九年目、然し本願寺破却の翌年で、又吉崎下向よりも五年前です)の日記に「蓮如は朝倉孝景と面談したが彼の不遜振に憤っていた。それでも蓮如の北陸下向の意志は固いと見た」とあります。―上人の吉崎移住が、文明三年の咄嗟の思い付きでないのは明らかでしょう。―そこで經覚については少々説明が必要と思います。

 この高僧は興福寺の別当でもあったと申しましたが、興福寺と言えば、当時、比叡山延暦寺と並んで日本佛教の双璧でありました。彼は興福寺の中で、大乘院という門跡寺院の門跡を二十八年間も勤め、更に大和国守護職も兼ねて、聖俗両面の大権力者であります。
 彼は上人より廿才年長であり、上人が本願寺住持となった一四五七年には六十三才でした。ところでこんな偉い人とどうして蓮如が昵懇であったかというと、実は經覚の母が本願寺の出で、系図には見当りませんが、恐らく蓮如上人の祖父・巧如の姉妹、従って父・存如と經覚は従兄弟同士であったからです。彼女は正林禪尼と呼ばれ、篤信の真宗信者で、一四四二年、上人二十八才の時、本願寺で没しています。このような母の因縁から、經覚と本願寺とは至って親密であり、両者は屡々往来(しばしばゆきき)していました。
 それ故上人はこのような聖俗両面で枢要な地位を得た經覚に頻繁に接する機会を得て、佛法もさる事ながら、世事について実に様々の事を学び取る事ができました。經覚も幼い頃から上人の非凡な人柄を見抜いていました。
 扨、四十三才で蓮如が本願寺住職になると、寂れ切っていた本願寺は蓮如の説法を聞こうと、忽ち黒山の人だかりとなります。又彼の行く先々、畿内でも、近江でも、見る見る彼の門徒の数は増加の一途を辿ります。恐らく興福寺のある奈良でも彼の名声は昂まり始めたでしょう。無名の彼が、一躍、一世の寵兒となったのにさすがの經覚も目を見張ったに違いありません。
 經覚と蓮如との会合は、京都でも奈良でもかなり頻繁だったようですが、そんな或時、經覚は、興福寺大乘院にとって最も重要な荘園である越前坂井郡(ごおり)の河口、坪江両荘、現在の吉崎一帯で起っている不祥事件について、ふと愚痴を漏らしました。
 その事件とは寛正二年(一四六一年)、經覚の跡を継いで大乘院主になった尋尊がこの両荘に反銭(たんせん)を課税したことに端を発するものでした。凶作に喘いでいた荘民は奈良へ上って、反銭どころか年貢の納付にも窮していると惨状を訴えます。
 尋尊は学識、才見共に当代随一と謳われた関白一条兼良の子息でしたが、本人は凡庸で、且(かつ)世情人情にも疎く、荘民の愁訴を斥け、又彼等に同情を示した越前の国の守護代、甲斐敏光を厭うて、同じ守護代でしたが野心家の朝倉孝景に反銭取立を依頼します。
 荘民百姓達は大いに驚き、反銭の一部を納入する事を約すると共に、将来必ず大乘院自体が阨(やく)窮(きゅう)する事になるので朝倉の介入だけは思い留まるよう嘆願しました。然し尋尊はこれを無視した。そこで朝倉は武力を以て反銭徴集を強行したのです。
 果せるかな尋尊の要請に名目を得た孝景は、越前に於ける甲斐敏光の勢力を圧倒し、これを機に永続的な河口・坪江両荘侵略を開始しました。
 ところで、先に言いました、蓮如についての一四六六年の經覚日記の記述ですが、この前後の事状から推測して、尋尊は朝倉が河口・坪江荘から反銭を取立てるどころか、武力を以てこの両荘の横領を開始したのに狼狽して、前の門跡の經覚に相談した。經覚は孝景の呪咀調伏を行うよう尋尊に勧めると共に、蓮如を彼に引合せた。そして尋尊は寛正四年(一四六三年)、本願寺へ出向いています。更にその翌々寛正六年、三人は奈良で会合します。その時經覚は蓮如に孝景紹介の手紙を渡しています。
 そこで蓮如は朝倉に会いに行ったが、冷たくあしらわれ、不愉快であった。然し何れ蓮如は自ら河口の荘へ移住して、興福寺と荘民との間を取成しますと經覚に約束した―というのがこの經覚日記の骨子なのでしょう。この頃蓮如は比叡山の目を逃れ、方々転々として、未だ南江州での布教を始めていませんでした。
 然し朝倉孝景はその年の中に大乘院に告文(こうもん)を差出して、事件は決着します。彼はこれによって謝罪し、もう荘園横領はしませんと誓ったのでしょう。
 こゝに於て、經覚、蓮如、尋尊、三者の話合はつきました。即ち1蓮如は時期を見て河口・坪江両荘の中へ住居を移し、そこで布教に専念する事を大乘院は認める。2但し蓮如は大乘院に代って荘民から年貢を取立て、それを大乘院へ届ける。
 經覚は蓮如を信頼し切ってこの両荘園を彼に委ねたのです。蓮如は然し未だ門徒でも何でもない荘民達を彼の意向に従わせるなんてとんでもない約束をしたものです。彼は孝景のように武力は一切持合せていないのですから。經覚も亦蓮如の教化力、人徳をどこ迄も見込んで、この依頼をしました。
 ところが驚く勿れ、この時から五年後の文明三年(一四七一年)、初夏上旬、上人は越前、加賀巡化に出発すると、その七月には吉崎に御坊(寺)を建て始めて上棟式を行います。すると地方から人々が詰めかけてお寺の周りに家を建てゝ、あっという間に町(寺内町)ができ、同じ文明三年の晩秋にはあまりにも大勢の参詣者が犇めくので、山門の扉を閉めなければならない程の盛況となりました。
 実に驚天動地の事です。恐らく日本の歴史の後にも先にも、こんな奇跡は見られますまい。

 蓮如上人と吉崎については、お話したい事がまだまだ山のようにありますが、時間の都合でそれは又次の機会に譲らせて下さい。
 たゞ、蓮如上人にとって吉崎は切っても切れない因縁の土地であり、どんなに長い年月、又どんなに深謀遠慮の末、吉崎御坊、吉崎寺内町建設の策を練って来られたか、その一端を今日は物語らせていたゞきました。実に蓮如上人が吉崎を造り、又吉崎滞在が蓮如上人の生涯の中で最も実り多い年月となったのです。

    

蓮如上人吉崎下向の新説を発表する台下
   蓮如上人吉崎下向の新説を発表する台下