財団法人本願寺維持財団(当時:現一般財団法人本願寺文化興隆財団) 理事長
大谷 暢順
蓮如賞はおかげさまで本年、記念すべき第十回目を迎えました。「京都発のノンフィクション文学賞」として、本賞は唯一の存在であり、本願寺伝承文化の維持、振興をもって、日本文化の発展に資する当財団の事業の一つとして、各界から高い評価をいただいております。
まずは、後援、祝辞を下さった内閣官房長官、文化庁長官、京都市長、その他の皆様に厚く御礼申し上げます。
また、本日、御参会の皆様には、佛教とわが国の文化についてあらためてお考えいただく勝縁となれば幸いと存じます。
さて、今回のシンポジウムのテーマは「日本文化興隆に向って」とさせていただきました。後程、文学界の第一人者たる本賞選考委員の先生方が、この度受賞されました「坂口安吾百歳の異端児」の著者、出口裕弘氏と共に佛教、文学などの觀点から日本文化を論じて下さるのですが、私は、我国の佛教を通じて、日本文化について、考えています事の一端を述べたいと思います。
佛教は今から二千数百年前、インドに於て釈尊によって開かれ、アジア諸国に伝播した後、我が国に伝来したのが、西暦の六世紀中葉です。爾来千五百年間、我が国は佛教国として繁栄を続け、世界に比類のない日本文化を築き上げて来ました。
我々の先賢がこれを我が国の風土に同化させ、また、教法の深奥化に努めて、伝来の教えを更に昇華した日本佛教を完成しました。こうして、佛教は日本人の生活のあらゆる面に浸透し、佛教によって我々は育てられて来ました。
ここで、日本佛教を大きく、鎌倉佛教と、それ以前の佛教に分けて論じていきたく思います。両者には、歴然たる差違が認められるのですが、それは末法思想というものゝ出現によるものと言えるかと存じます。
鎌倉幕府の成立は一一九二年で、末法時が始まったとされるのは、その百年以上前の、一〇五二年です。その百年の間に、公家社会は徐々に力を失い、政治権力は武家の手に移ります。こうした社会の変遷は、当時の人々に、末法の時代に入ったという実感を与えました。そしてそういう世の中の儚(はかな)さに、救いを齎すものとして、鎌倉佛教が登場するのです。
末法時に入ると、もう誰一人、覚を開けなくなる。それどころか、佛道修行さえもしなくなるのだ、と言われています。即ち末法には、それ以前の時代よりも、人間の機根(能力)が低下するというのです。
けれども、そうだからと言って、凡ての人間が、かつては覚を開けたというのではありません。言い換えれば、昔は賢者も愚者もいた。それに反して、末法時には、誰も彼(か)も愚者になってしまった。―この教えは、本来、悲観的、敗北主義的思想であった筈です。それが、思いもかけず、一種の平等思想を醸成する事となった、と私は考えるのです。
こうして、新しい宗旨の開祖達は、口を揃えて、佛の教えは、あらゆる人々の為にあるのだし、又そうでなければならないと主張しました。鎌倉諸宗派が、大成功を収めた一因はこゝにありました。
この結果、鎌倉佛教の諸宗は、民衆の覚(かく)醒(せい)を促したという点で、言而レジスタンス(抵抗)的性格を生み出しました。後の室町、戦国時代では、蓮如が多数の農民門徒を糾合した浄土真宗教団の確立に成功する事となり、又日蓮宗諸派の聯合体による京の町衆(ブールジョワ)の組織ができ上る道を開いたと言えます。
一方、鎌倉以前の佛教は、国家全体の繁榮と安泰を問題としていました。当時、都の奈良には六つの宗旨があり、奈良の大仏の鋳造と東大寺の建立、地方の国毎に建立した国分寺、国分尼寺などにより、佛教が我国の国教となりました。
そこでは、薬師佛、阿弥陀佛、弥勒菩薩、地蔵菩薩などが、大日如来と共に奉安されて、日本人は別段それが不都合だとも思わず、国民全体が佛教徒として生活したのです。その他、藤原氏とか平氏とかが、夫々一族の平穏を願うとか、不幸な死を遂げた菅原道真などの怨霊を弔うというような事も行われました。
これらは、何れも国家や氏族の繁栄を祈願したのであって、言而、個々の人間の外部の問題です。つまり、鎌倉以前の佛教徒は多様性の中にも統一を保った、鎮護国家思想の教えに生きたのです。
ところが武士階級の抬頭は、社会秩序に動揺を来しました。国の統一性は失われ、朝廷と幕府は、鎌倉時代以来潜在的対立を続けるのです。
佛教界も亦決定的な変貌を遂げる事となります。それまで現世の幸福を説いていた佛教に、人々は飽き足らなくなり、「あの世」という事に関心が向けられ始めます。一族や社会全体の幸福を祈るという事よりも、個人々々の救済を願う事を考えるようになったのです。つまり「個」に目覚め始めたと言えましょう。
鎌倉佛教祖師達は、佛典を真剣に学びました。然しそれ等を佛教学として学ぶのではなく、人間の魂の救いの道をそこに見出そうとしたのです。彼等は数百巻の一切経の中に埋没して、それ等が屡々お互いに矛盾しているのに当惑もしたでしょう。学問に学問を重ね、又苦渋に充ちた熟考・反省の揚句、人間の救いへの渇望に応え得るたゞ一つの述作、時にはたゞの一行につき当るまで苦悶し続けました。
彼等は、そこで、これこそと確信した経典或いは論釈の一箇所に、言而白羽の矢を立てゝ、佛教の他の教説を、大胆にも残らず捨てゝしまったのです。
榮西、法然、親鸞、道元、日蓮等の宗旨はこうして誕生しました。それ等は千七百年間培われた佛教の教説―中には非佛教的な要素も、又、夫々の地方の土着信仰も、(そこに、日本の物もあれば、外国の物もあります)―そういうありとあらゆる物が混在した尨大な宗教文化の継承大系、そこから「捨象」に次ぐ「捨象」の作業を経た後にでき上ったものなのです。
この傾向は、時代を経る程先鋭となって行きます。法然より親鸞が、榮西より道元が、一層断定的であります。改革者達は、こうして、民衆の魂に触れると思われる教理を立てて、他の一切を投げ捨てたのです。
鎌倉佛教の確立は、従って、一口に言って、求心力の作用であると私は思います。この求心性のエネルギーは、鎌倉の後も、南北朝、室町を通じて、愈々その勢力を増して、戦国時代になって、その頂点に達します。
これに引き換え、古来の佛教では、教説はまちまちでした。けれども、宗旨相互の間では、大した摩擦もなく、融和した統一性が保たれ、而も大いに活気もありました。それで私は、そこに遠心力が作用していたのだと考えます。
以上、鎌倉佛教と、それ以前の佛教について鳥瞰的に眺めて参りました。そこで、次には、この両者間の大きな違いに御注目いたゞきたいと思います。
先ほど、述べました通り、旧来の佛教は、その多様性にも拘らず、互いに融合し合っていました。
それに反し、鎌倉佛教は、それぞれの宗旨の教理としては 単一性を持つようになったが、各宗相互間は極めて非妥協的となった―という事です。
日本佛教史上でのこういう対称的なあり方は、今日の我々にとって、興味深く、又これを他山の石として、今後の佛教界の為に、大いに参考にすべきかと私は思います。
鎌倉佛教は、現世の幸福とか、道徳とかいう事ではなく、教えを自己自身のものとして考える、或意味で、人間性の確立を成し遂げたという大きな功績があったと言えましょう。
又一面、佛教を一般民衆に弘めようとした、今日的な表現をすれば、あらゆる人々に開放しようとした、というのも賞讃すべき事だと思います。
そこでその教説は、単純明解なものとなり、純粋一途なものとなりました。佛教は教義上の大変革、大発展を遂げた―今日の人々は概ねこのように鎌倉佛教を認識しているように思われます。
明治以後、所謂新宗教が続々と誕生し、その傾向は今日も続いていますが、これ等も新しいとは言いながら、鎌倉佛教精神とでも言うべきものを、肯定し、継承しているように、私には見えるのです。
他方、鎌倉時代以前の佛教は、鎌倉佛教から見れば、教義的に未発達のように看做されるかも知れませんが、それが国民全体の精神的支柱になっていた事は間違いありません。佛教によって、国全体が融和統一を保っていたのです。
そして教えとしては、上座部佛教あり、大乗佛教あり、密教あり顕教ありで、拝まれる佛も、様々であった事は、前にも述べた通りですが、その為に大きな争の生じた事はありませんでした。
それに在来の我国の神々も、本地垂迹という考えによって、同様に崇められ、今日の我々から見れば、実に雑然たる寄合世帯だったのですが、然しその中で、誰もが皆佛教徒であるという自覚に生きていたのは、注目すべきではないでしょうか?鎌倉佛教について、私は「求心力」と申しましたが、平安以前の佛教では、逆に遠心性がエネルギーとなって、佛教の繁榮が齎された、という風に私は感じるのです。
さて、今の世の中で、我々は単に鎌倉佛教を継承し続けているのみでよいのでしょうか?それ以来、已に八百年以上も経過した今日、当初新鮮であった教義は、もはやその精彩を保ち続けていません。
先ず、文盲のなくなった現代、「啓蒙」の意義もなくなっています。次に、公家社会、武士階級も過去の存在となって、もうレジスタンスの対象もありません。又情報社会の世の中では、良し悪しの問題は別として、人間の個性は急速に影がうすくなって来ています。
先程から枚擧致しました、鎌倉佛教の幾つかの特質は、今やその受容(うけいれ)基盤を失っていると私は感じます。つまりその存在理由(レゾンデートル)が弱くなってはいないでしょうか?
鎌倉佛教が求めた純粋化、単一化は、教団が物心両面で、時代を経て硬化して来ると共に、排他主義の傾向に堕して来たきらいもあります。
今茲に、明日(みょうにち)の佛教という事を考えますのに、鎌倉佛教の形骸を、我々は何時迄も引摺っていてよいのでしょうか?
抑々鎌倉佛教というのは、その前時代の佛教を否定して出現したので、これをヘーゲルの弁証法に当て嵌めれば、アンティテーゼの佛教であります。私は今やそのジンテーゼを立てるべき時に来ていると思います。
一切衆生が救われるのが佛の道であるという事、それは我々各々の心の問題であって、単に、死者の霊を弔うとか、世の中全体の幸福を願うとか、そういう自己を離れた問題ではない事を明らかにした点で、鎌倉佛教の功績は大きいと思います。
言う迄もなく、我々は銘々に、自分の信仰を持つべきであります。然し其上で、我々は他の宗旨や宗教をも認める寛容さを備えなければなりません。様々の教説が行われていながら、お互いの間に、反撥・抗争を起さなかった奈良平安の佛教には、そういう点で学ぶべきものがあります。この両佛教の合定立(ジンテーゼ)を求めて行くのが、今後国内的にも国際社会に向っても、現在、我々佛教徒の取るべき態度ではないかと、私は考えます。
以上、日本佛教の歴史を概括して、私の感ずるところを述べた次第ですが、西暦六世紀の伝来以来、佛教は、日本人の精神を、兎も角も一貫して支えて来たのであります。それは文学、思想、哲学、道徳、芸術、更に茶道、華道、武道、そして日常生活の隅々にまで滲透しています。佛法の教自体も、千五百年の間に、大陸のそれより、深化され、昇華されて今日に至っています。こうして大成した日本文化は、今や欧米諸国のみならず、広く世界的に大きな評価を与えられるようになりました。
翻って我国の現状を見ますと、第二次世界大戦後の荒廃から立上り、驚異的な経済復興を成し遂げましたが、政治、外交その他の分野から、肝心の経済に至るまで今になって難関に逢着し、深刻な事態となっています。然し、経済発展とは、本来、国家再生の為の手段ではなかったのでしょうか?これを国家の目的、国是、と取違えているところに、この行詰りが起因しているのではないかと私は考えます。
むしろ私は、我国が千五百年来培って来た佛教文化、日本文化を一所懸命に守り、且つ育て、そして海外に向ってこれを発進して行く事が肝要であると思議するところです。そうする事が目下混迷する世界状勢の中で、日本の国家としての品格を昂める事にもなるに違いありません。
これを以て甚だ拙い私の講演を終らせていたゞきます。御静聴を感謝致します。
以上