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第11回蓮如賞記念公開シンポジウム基調講演 人類共通の叡智 京都文化

財団法人本願寺維持財団(当時:現一般財団法人本願寺文化興隆財団) 理事長
大谷 暢順

「京都発のノンフィクション文学賞」として、唯一の存在である蓮如賞は本年、おかげさまで第十一回目を迎えました。これは本財団が行う東山文化振興会や各種出版、国際交流などとともに本願寺伝承文化の振興、日本文化の発展を目指す本財団の主たる事業の一つで、文学、思想などの興隆に寄与する日本の「国益に利する事業」であると国内外から高く評価されてきました。
さて、今回の講題は「人類共通の叡智 京都文化」であります。少々欲張ったテーマでありますが、私の考えの一端を述べさせていただきたく思います。

現在、人類社会のすべての分野―政治・経済・外交のみならず、自然科学・人文科学の研究、文学、芸術、そしてスポーツ競技に至るまで、あらゆる社会活動が世界的な枠組で行われております。国際的に共同で研究を行ったり活動したりということが、今や当然といった感じでなされるようになりました。古くから国際間の協調、話し合いは行われてはいましたが、この国際化・グローバリズムの傾向は、第二次世界大戦以後、急激に普及するようになりました。
しかしながら、本当の意味での国際的な行動、協調は、そこに参加する全ての人が、共通の道義的な理念を根幹に持っていなければ、成し遂げられないものではないでしょうか。今現在のところは、アメリカのグローバリズム、デモクラシー(民主主義)が基調となっているようですが、それは決して「人類共通の理念」とは言えますまい。欧米諸国間では或程度のコンセンサスを得ているかもしれませんが、アラブ諸国などは容易にアメリカのデモクラシーを受け入れない為に、結果としてイラクやアフガニスタンのような失敗もあったわけで、また、中華人民共和国、ベトナム、ミャンマーといった共産主義諸国とも、様々な摩擦が起こっています。人類共通の理念を持たないままに行動してきた結果、世界各地で軋轢・摩擦が起るのです。
デモクラシーという言葉は、古代ギリシャで生れたものですが、古代ギリシャと現在のデモクラシーは根本的に違います。現在のアメリカのデモクラシーは、平等思想、人権尊重、機会均等、門戸開放を掲げたもので、具体的には普通選挙に代表されるものでしょう。このアメリカのデモクラシーは、キリスト教を基盤としているようです。現在のデモクラシーは、一神教であるキリスト教と、デカルトの言う「我おもう、故に我あり」などに代表される自我から出発する人間中心主義に立つ西洋近代思想を融合した思想とも考えられ、全ての事象を善か悪か、正か邪かなどに分けて考える二元論がその中核をなしています。この二元論が大変大きな間違いであるように私は思うのです。フランス革命やアメリカ合衆国独立などにより生まれた、キリスト教とは別の自由、平等などの説を元にしてもいますが、それも結局は悪と判断されたものはどこまでも罰せられなければならないという二元論であります。
ところが世の中では全てを善と悪とにはっきり分けられるかというとそうではありません。世界中の人々が認識している善と悪というものは夫々違っているから、争いごとが解決できないのです。ですから、この二元論を基盤としている現在のデモクラシーは、これから先も、「人類共通の叡智」にはなり得ないと私は考えるのです。
同じく一神教であるイスラムの思想、そして中華人民共和国に代表される共産主義も、人類共通の叡智となるのは不可能と思われます。
そこで、キリスト教、イスラム教とは違った、一神教ではない宗教である佛教、その佛教に基づいて形成されてきた日本文化、中でも日本文化の原点であり頂点である京都文化を、人類共通の叡智として、世界に向って発信できるのではないかと、私は考えるわけであります。

キリスト教がローマ帝国の国教となって以後、それ以前のローマ神話は否定され、排除されました。ローマ帝国の滅亡、民族大移動後の西ヨーロッパでは、ゲルマン神話、北欧神話、土着の信仰なども同様の憂目に遭いました。更に時代が下ると異端審問が起こり、それが密告制をとったために実際には私的な怨恨・利害も絡んで、不条理、非道極りない行為が行われました。十六世紀になると、宗教改革によって新教と旧教が対立する事態となり、それが宗教戦争へとつながります。そしてその後、フランス革命において今度はカトリックが否定される羽目となりました。
なぜ、西洋の宗教史はかゝる暴力的な対立と抗争の歴史となったのでしょうか。私は、二元論の信奉が過ちなのではないか、と考えます。

翻って我が国の歴史を鑑みるに、古来、我が国固有の神道信仰のあったところへ、六世紀、大陸から佛教が伝来した際、西洋世界のような大変な混乱は起こりませんでした。起った混乱は非常に軽微なものであり、すぐさま我が国の先祖たちは佛教を受け入れました。しかし、その佛教は神道の教を排斥するのではなく、融合、一元化する道を模索し、その結果、神佛習合がなされるに至ったのです。この佛教と神道の融合は、我が国の先祖たちの驚くべき融和・寛容の精神の賜物と言えましょう。奈良時代以後、神佛習合は、徐々に本地垂迹説など理論の体系化・整備を果たし、それと平行する形で、平安文化が繁栄しました。平安文化は融和・寛容の精神に基づく、佛教の教を基盤として成り立った文化です。その中で源氏物語といった平安文化最高峰の文学が誕生したのです。
この平安時代の約四百年の間というのは、文字通り治安がよく、軍隊さえ必要なく、検非違使という警察制度だけで世の中が治まっていました。融和・寛容の精神のもとに築かれた文化だったからこそ、平穏と安定の時代が実現したのだと思います。
しかし、やがてその安定は社会の沈滞をもたらします。政界でも、宗教界でも、すべての機構が固定化し、一部の人間が権力を独占するようになってしまいました。そこに、沈滞した社会を変革すべく、新興の武家が公家に代って政権を握る鎌倉時代が到来します。そして、宗教界においても、融和・寛容志向、つまりは屡々妥協に流れ勝な平安以前の佛教を否定して、真摯に人間一人一人、個人の心の救いを説く鎌倉佛教が登場しました。法然・親鸞等の浄土門諸宗の他に、禅宗、日蓮宗などの新しい宗旨が次々に誕生したのです。

鎌倉佛教には、今申し上げたように、平安以前の佛教に対するいわば抗議運動という側面がありました。従って公家社会から武家社会への社会変革の指導原理、イデオロギー的役割も果します。
さらに、鎌倉佛教は、教義の純粋化を追求し、ピューリタン的な運動へと展開していきました。浄土門で言えば「弥陀一佛」のみが大事でありすべてであるということを追求した結果、他のものは必要ない、「神祇不拝」の思想も生み出しました。道元は、諸々の佛道修行をさしおいて、ひたすら座禅に打ち込む、只管打坐を勧めましたし、日蓮は一切経の中から、ただ法華経のみを取り上げ、しかもその経を読むのではなく、題目を「南無妙法蓮華経」と唱えさえすればよい、として、教義の簡潔・単一化を志向したのです。
然しながら、このことが反面、独善主義、排他主義に陥る危険も孕むようになりました。
また、教義の純粋性を追求したことは、教自体が所期の目的に反して高踏的なものとなったりもしました。その為、鎌倉佛教は、当初彼らが期待して主張したほどには民衆に広まらず、鎌倉時代を通じて少数派に留まっています。これらが広く社会の人々に受け入れられたのは後の室町時代に入ってからのことでした。それは、鎌倉時代に誕生したこれらの諸宗が、この頃になって各々より現実的な布教に踏み切った為であります。

室町へと時代が変わると、仏教界全体で鎌倉佛教の見直しが行われ、鎌倉佛教はその独善・排他主義的傾向を和らげてきます。この時代、再び奈良・平安期の融合・融和志向に回帰する傾向がみとめられます。その最たるものが蓮如だと私は考えます。そこで蓮如の生き方、教の一部をこゝに紹介し、融和・寛容の精神に基づく京都文化に迫りたいと思います。

本願寺第八世・蓮如は、室町末戦国期に現れた浄土真宗の僧です。親鸞亡き後、真宗教団は分裂・低迷し、他の宗旨との区別もそれ程鮮明ではなく、本願寺も天台宗の一末寺とみなされていました。蓮如は、その本願寺を一代にして我が国最大の教団へと育て上げ、宗祖親鸞の説いた彌陀一佛、他力本願の教理に純化、統一させ、宗派の独自性・主体性を打ち出しました。
一方で、他宗との確執を解消し、中でも日本古来の教である神道との融和に大いに心を砕きました。「我々は阿弥陀仏によってしか救われないのであるから、他の諸神諸佛は一切拝む必要もない」と考えていた門徒たちを、蓮如は「諸神諸菩薩ヲカロシムヘカラス」、つまり「浄土真宗以外の佛教の諸宗も、神道も尊重するべきである。」と戒めました。また、蓮如は弟子や門徒たちに「おまえたちは神社の前を通っても、参拝もせず、見て見ぬふりをしているが、そういう者に限って、本願寺へ参詣しても、御本尊の阿弥陀佛や親鸞聖人の御影を丁重に拝礼しない。」と叱っています。厳しく純粋に、というのはあくまでも手段であり、もっとも大切な目的は信仰を確立することであります。純粋性を求める余り排他的となって、その結果最も重要な信心獲得を疎かにしてしまっては本末転倒であるー蓮如は門徒に対し、彼らの目的と手段の取り違えを改めさせようとしたのでした。また、「信仰を得たら人間は謙虚にならなければならない」ということも、繰り返し門徒たちに語りました。人間は独善や排他に陥ってはならない、傲慢であってはならないと門徒達に説き聞かせました。
蓮如は本地垂迹説も真宗の教理の中に取り入れ、宗祖親鸞の教を正しく守りながらも、融合・寛容の精神に基づく日本文化の中に、浄土真宗を位置づけようと試みました。蓮如は、「佛・菩薩は本地であるが、その教は高邁で近づきにくいので、先ず権に神の姿となって我々衆生と縁を結んで、その後仏法に導き入れるのである」と『和光同塵』の諺を援用した理法を御文の中に展開しています。佛の教は、あまりにもその光が強いので、光を和らげて、佛・菩薩は日本の神の姿に変身し、我々衆生と縁を結ぶ、つまり我々衆生を仏法へ導いて下さるのだ、ということです。蓮如は宗祖親鸞の教の中に、奈良・平安の融合・調和精神に基づき、神仏習合を組み込んだのでした。
また、蓮如は「王法ヲ額ニアテヨ、仏法ヲ内心ニ深ク蓄ヨ」ということをよく言っています。王法とは、世俗の法のことで、俗世間の法律や習わしに従って、普通の俗の人間と同じような生活を送りながら、心の中にはしっかり信仰をもっているーそれが本当の真宗の信者の姿だ、ということです。さらに「王法を先とし、信仰を本とせよ」とも言いました。以上のように、世俗の中で、世の中と協調していく、穏和で而も信心堅固な人間を育てようとしたのです。この蓮如の教えは瞬く間に多くの民衆の心をつかみ、本願寺は日本最大の教団へと成長を遂げました。蓮如の協調的・融和的な思想は、結果的には日本人の信仰心を深め、他者に対する寛容といった古来からの日本人の精神文化を今に伝えているのです。

現在、我が国では政教分離ということが言われています。政教分離とは、元來ヨーロッパで生まれた思想で、「政治」を「宗教」とではなく「教会」と切り離すことだ、教会とはつまりキリスト教会であり、キリスト教組織のことであり、宗教全般を否定して政治と切り離すものではない、という弁解がましい理論付が為されていますが、それは欺瞞で、やはり政教分離は宗教を政治から切り離すものであって、宗教の疎外、軽視につながっています。今、世の中では、共に生きる、「共生」という言葉がしきりに叫ばれていますが、政教分離はその理想に相反するものです。分離とは、一方が他方を軽蔑し排斥することにつながります。我が国においても、明治元年に神仏分離令が発令され、表向きは「神道と仏教を分けよう」ということでしたが、なされたことは佛教の排斥でした。この神仏分離令はただちに廃仏毀釈運動へと流れ、破壊・流血行為が行われるに至り、明治政府は明治五年には神仏分離令を廃止します。
第二次世界大戦後、日本では「政教分離」がGHQの指令により推し進められました。結果として、現在の日本社会では、政治と宗教を分けるということだけではなく、宗教をあらゆる場から排除する、宗教を抹殺せんとする風潮が蔓延していると思わずにいられません。言而、「廃佛毀釈」ならぬ「廃佛毀神」とでも言うべき行為であります。政治のみならず教育の現場でも極端なほどに宗教が排除された結果、海外で自分は無宗教であると公言して却って冷笑される日本人が増えました。日本人は自らが拠って立つところの精神を見失ったのではないでしょうか。「政教分離」を無批判に日本が受け入れた結果、このような事態、情勢になっているのです。誠に嘆かわしく、残念な事です。
我が国の先祖たちは、西欧とは違い、外来の宗教である佛教と、日本固有の宗教である神道を、驚くべき寛容の叡智でもって融合・昇華させ、神佛習合を基調とした独自の日本佛教を生み出しました。この「日本佛教」をもとに、平安・室町の文化は花開き、その文化は日本人の精神を、一貫して支えて来ました。そして、京都文化は平安、室町の文化を受け継いだ日本文化の原点であり頂点であります。その基底にある神佛習合の信心・精神のもと、融合・調和・寛容の文化を千数百年間にわたって、育んできたのです。
この京都文化、信心に基づく融和精神を、まず私たち日本人が再生させ、さらに世界に向かって発信していくことは、極めて大きく世の中に貢献することになると私は確信しております。今後益々国際化が進むであろう我々人類社会において、京都文化こそが真の「人類共通の叡智」として新たな指針となり得るのではないかという期待の下に、この度「人類共通の叡智、京都文化」というテーマを提唱致した次第であります。

以上