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第9回親鸞賞記念公開シンポジウム基調講演 「京都から世界へ 日本のこころ」―

一般財団法人本願寺文化興隆財団 理事長
大谷 暢順



大谷暢順理事長による基調講演

 本願寺文化興隆財団は日本文学、日本文化を国内外で高揚すべく、公益文化事業の一環として、フィクション文学賞「親鸞賞」とノンフィクション文学賞「蓮如賞」を毎年交互に主催してきました。
 ともに「日本人の心」を深く考察する作品に授与する、京都で初めての文学賞として、四半世紀に及ぶ実績を重ね、大きな反響を呼んできました。又、他の文学賞とは異り、授賞式だけではなく、この基調講演に引続いて、選考委員の先生方と受賞者によるシンポジウムも開いてきました。平成20年には「日本人の智恵」を人類共通の叡智にと「京都文化マニフェスト」を京都市とともに世界に向って宣言しました。
 こうして、今年も亦、文学賞を通して皆様とともに日本の文化や精神を再考し、その叡智を京都から世界に発信していきたく思っています。

 ところで、現代は、あらゆる面で客観的、実証的且つ冷静に、合理的であることが重視されているようで、各人独自の主体性を備えた判断はあまり尊重されない傾向にあると思われます。
 つまり往々にして何事にも普遍、妥当性ある理性に基く判断が求められて、個人の感情や意志は没却すべきであると考えられ勝ちになっています。
 言い換えれば、我々には、物事を客観的に捉え、自らは常にその圏外に立って、責任を取らない、或いは、取るべきでない、つまり、自己不在の人生観、社会観が求められている事になります。
 文学に於ても、とりわけ歴史小説では史料に基いて事実を再現する実証的なものが多く、現代小説では、現代社会を読み解く、とか、現代社会にメスを入れた、というような作品がもてはやされているようです。
 14世紀のルネサンス以来、培われてきたこの欧州の思想傾向が今日では世界全体を覆っています。
 しかし、三千年の歴史を持つ我々日本文化は、これと異り、むしろ、常に自己、自身を顧る、佛教並びに神道の融合した教を基に築き上げられた文化であります。
 此度の受賞作『若冲』は、まさに三千年の日本文化の潮流を継承した、常に自己を顧み、そこに救を求めていく小説であります。
 作品の主人公である若冲は、新婚の妻を、婚家の家族から疎外されて、自死に至らしめたという呵責に苛まれ、更に亡妻の弟からそれを責められて、生涯苦しむという設定になっています。
 罪を犯し続けざるを得ない、どうにもならない苦しみを書いたこの作品を読むことで、読者は、それが決して他人事ではなく、自分も亦、人を傷つけて生きていることに気づかされます。言而、社会にメスを入れるのではなく、作家自身を、そして、読者を切りつける、近年の文学作品とは大いに異る作品です。
 即ち、正義論を振りかざして他者を弾劾する、そして、自らは責任を取らないという現在の風潮とは正反対に、自らを顧て、その罪悪感からの救済を願う主人公の態度は、誠に美しいと思われます。
 そういうわけで、受賞作の中に、日本の良き思想潮流の復興を認め、佛法、神道に基く日本文化の伝統に根差したこの作品が選考されたことは、誠に欣快の至りであります。当に、千五百年に及ぶ日本古来の佛法精神とその文化を体現した作品で、親鸞賞の意義と目的に適ったと言えましょう。
 お釈迦さまは人間が根源的に無知であることを「無明」と言われ、この「無明」が人間の「苦」の根源にあるということを看破されました。何に無知であるか、ほかでもない自分自身について「無知」なのです。

 さて、本年11月9日、チベット佛教の最高指導者、ダライ・ラマ14世法王が京都の寺社で初めてこの東山浄苑東本願寺に公式参詣されました。東本願寺は約百年前、東本願寺第22世現如上人が、日本で初めてダライ・ラマ13世法王に使僧を派遣して公式親書を送る等、日本佛教界に於てチベット佛教との交流に先鞭を付けました。戦争等でこれが途絶えたものの、今回、佛縁が熟して一世紀ぶりに交流が再開したのであります。
 法王の「人生の目的は仕合せになる事だ」との金言を基に、我々は佛法興隆共同声明を作成し、欧米の首脳に送る予定を立てています。
 然し乍ら我々は日常、インターネットのサイトとか、テレヸ、新聞等で、何所何所で殺人事件があったとか、贈収賄が行われたとか、暴言を吐いた者を喚問すべきであるとか、種々忌わしい報道を見聞きしますと、みんなでそれを語り合い、大いに慨嘆し、切歯扼腕して、世を嘆く事が、往々にしてあります。然しそんな事をしても、世の中は少しもよくなりません。
 実はこういう風にして、我々は不幸の種を探しているのです。我々は我々自身を不幸に追いやっているのです。これ程愚かな事はないではありませんか。
 法王は、仕合せになる為には、思いやりの心が肝心であると力説されましたが、思いやりの心とは、畢竟、恩を感じる事であると私は思います。「恩」という事の大切さを、久しく我々は忘れていはしますまいか。

 恩については、父母の恩、国王の恩、師友の恩、衆生の恩、天地自然の恩等とよく言われます。また、「報恩」:恩に報いる、「知恩」:恩を知る、等の熟語がありますが、恩は感じるもので、「感恩」という熟語が適切なのではないかと私は思います。
 恩は元々梵語のkṛta-vedin , upakāra等の佛教経典の言葉を翻訳するのに、この漢字を宛てたもののようですが、これ等には、「恩を感じるもの」という意味があります。ですから、恩は知恩、報恩と言うより感恩と漢語訳した方がよかったのではないでしょうか。
 何故私がこの「感恩」という言葉にこだわるかと申しますと、恩には、恩を与える者と、その恩を受けて、それを有難いと感じる者の両者の、言而、感応道交がなければならないと思うからです。即ち、
 父母の恩、よりも、親子の恩
 師匠の恩、よりも、師弟の恩
と言うべきかと思います。
 そこに、両者共に喜び合い、幸福を感ずる、心と心が通じ合うものが必要で、そこにみんなが仕合せになる道が開けて来るのではなかろうかと、提案申上げて、鄙見乍ら、私の講演を終らせて戴きます。

以上