蓮如上人の生涯
蓮如上人の年譜
蓮如上人の辿った道
蓮如上人と吉崎の関係
御文について

蓮如上人と吉崎の関係

 応仁の乱によって始まった戦国時代は、まさに火宅無常の末法の世でした。荒廃した世相の中、人々の心に平安をもたらし、日本人の精神を昂めた一人の偉大な宗教家が誕生しました。その名は、本願寺第八代法主・蓮如上人。本願寺をわが国最大の教団へと押し上げた浄土真宗開立の祖であるとともに、中世から近世への扉を開いて、わが国の精神文化の礎も築いたのです。
 その出発点となったのがここ、越前国吉崎の地に蓮如上人が建立した吉崎御坊でした。上人が高揚した教えと精神は、燎原の火の如く、瞬時にして北陸の大地に広まり、全国へ波及します。しかし、それ以前の本願寺は京都東山にあって、ご開山親鸞聖人の血脈を受け継ぐものの、「人跡絶え、さびさびとおわします」という微々たる存在に過ぎませんでした。上人の代となり、興隆の兆しが見え出したとき、比叡山の攻撃を受け、堂宇を破却されてしまいます。滋賀県大津の三井寺に頼って一時の安住を得た上人ですが、比叡山の弾圧は執拗に続きました。意を決した上人は、遂に都から遠く離れた越前吉崎を布教の新天地に選びます。時に文明三年(一四七一)、宗教家としての生死を懸けた齢五十七の決断でした。

 吉崎は越前と加賀の国境にあり、三方を日本海と北潟湖に囲まれた丘陵地でした。上人は「虎狼の住処」と述懐されましたが、水運の要であり、要害としても優れた条件を備えていました。通称「御山」と呼ばれる台地に築いた坊舎を拠点に、上人は積極的な教化を再開します。それは、宗教界の風雲児たるにふさわしい先見性を持った内容でした。
 まず、文書伝道として門徒たちに宛てた手紙「御文」の大量作成、信心の集いである講の結成、名号の下付、さらには、ルターの翻訳聖書開版に先立つこと半世紀となるご開山親鸞聖人の「正信偈」「和讃」の木版印刷など、実にエネルギッシュな布教活動です。この獅子奮迅の活躍により、吉崎は「道俗男女幾千万という数を知らず群集せしむる」繁盛をします。吉崎に上人が到着して僅か三ヶ月後のことでした。ここに、日本の歴史上一大奇跡とも言える「蓮如ブーム」がほんの三ヶ月の間に沸き起こったのです。お念佛の大合唱が、北陸の津々浦々に地鳴りの如く、響き渡ったことでしょう。どの村でも上人の話題で持ちきりだったに違いありません。吉崎へ参詣する若嫁を、姑が鬼の面を付けて脅かしたという話で、人形浄瑠璃にもなった「嫁脅し肉付きの面」、地元で今も語り継がれる民話「吉崎七不思議」などもこうした「蓮如ブーム」が背景にあったのです。雲霞の如くの群参に御山は、かつてない繁栄を誇ります。御坊の周辺は参詣者の宿泊施設となった「多屋」と呼ばれる宿坊が建ち並び、その中央に馬場大路というメーンストリート、南大門から七曲がりを降りたところには、船による参詣の船着き場ができました。こうして、無人だった山が一気に大都市、寺院を中核とした寺内町に変貌したのでした。

 当時の民衆を魅了し、その心を捉えて離さなかった上人。その教えはどのようなものだったのでしょうか。
 もちろん、ご開山親鸞聖人のお念佛の教えを受け継ぎ、阿弥陀佛のお力を信じ、安心してみ佛のお助けにお任せする「他力の信心」だったことは言うまでもありません。親鸞聖人、蓮如上人の血脈と法統を受け継ぐ大谷暢順本願寺御法主台下は、上人のその画期的な教学の解釈、思想を「蓮如イスム」と呼び、日本人の精神に新たな局面を開いたと説きます。

 上人の「御文」の中に「和光同塵」と言う言葉があります。諸佛が日本の神々となって私たちの前にあらわれる、すなわち、神佛習合を説いたわが国独特の佛教思想「本地垂迹」に則り、阿弥陀佛を拝む信心を第一義、最も大切としながら、その行為によって神も敬うことになり、その祝福を受けると説いたのです。現代世相の諸問題にも通じる他の宗教、文化を否定、排除しないこの多様性、寛容性が、戦乱に明け暮れる人々の心を潤したのです。
 また、上人は信心を持ちつつ、世間の法律も守る、まず、佛法に生きながらも、その佛法に裏打ちされた世の中の道理、規範も考えていこうとも説きました。それと同時に、人間は罪深いが阿弥陀佛はその罪を全て消してくれる、しかし、罪が消えたかどうかの問題ではなく、常に罪を犯す私に他人は様々な恩を施してくれる、そして、その奥にみ佛がおられる、み佛はもちろん、他の人間の恩にも気付きなさいとも指摘したのです。ここに、純粋化され過ぎた鎌倉佛教を、上人が独自の思想をもって、より民衆の生活に近づけたところに偉大さがあり、その思想によって、中世から近世への扉を開く新たな精神文化が育まれたのです。

 民衆がお念佛の教えに出遇うことだけを一心に望んだ上人でしたが、吉崎の急速な発展は現地の勢力関係に不安定を生じます。上人はそのため、御坊の門を閉じ、参詣を禁じる英断を下すなど、再三にわたって不穏な動きを制止するものの、応仁の乱によって、天下が二分された東軍西軍の対決、加賀の守護・富樫一族の内紛に巻き込まれて、一向一揆の蜂起へと世は変貌してゆくのでした。

 上人はついに文明七年(一四七五)、断腸の思いで吉崎を退去し、都へ戻ります。上人滞在僅か四年の間に北陸はもとより、わが国有数の大都市が「虎狼の住処」だった辺地に出現したのでしたが、上人の帰都によって、また、忽然と姿を消してしまいます。それはまるで蜃気楼のような歴史現象だったと言えます。しかし、上人が残したお念佛の教えは枯れることなく、大輪の花を咲かせ続けました。そして、上人は「佛国土」と驚嘆された大坂の石山本願寺、京都の山科本願寺などを次々と建立し、八十五歳の生涯を終えるまで人々の心にお念佛の火をともし続けたのです。

ツアー拝観コースのご案内
イベント情報
周辺観光情報